あとがき
narko [春にしてオザケンを思う]
対談中でも何度かネタふりをしていたのですが無視されたから
このあとがきの項で書きますが。
もしかして十年前の僕らが胸を痛めて聞いてたオザケンの曲と同じような仕事を今クドカンがしているのではないでしょうか?
と去年末「刹那」を聞いた時思いました。
最近オザケンの曲(フリッパーズギターも含めて)繰り返し聞いてて、心のベストテンを独占しているのですけど、当時私はオザケンを理解していなかったんだなと思いました。
オザケンが歌ってたのは多分一貫していて、現在進行形の幸福に身をゆだねながらどこかそのパーティを醒めた目で見ているような。
たとえば♪多分このまま素敵な日々がづっと続くのさ〜♪とか
♪僕は思う〜この瞬間は続くよいつまでも〜♪とか
今のこの気持ち 本当だよねぇ〜♪とか
今聞くとパーティーが延々と続くんだと強調する歌が多いんですよね。
それを額面通り受け取るとかなりおバカなんですけど、オザケンはあえて言ってたのではないでしょうか?
これがフリッパーズギターの頃はまるで終わりを先回りして声高く強調することで、強がってたような、「僕はわかってますよ」的なアプローチだったんですけど。
それがソロになると終わることが前提のパーティーにあえて飛び込みその終わることの痛みも含めて引き受けていく過剰な何かオザケンの曲でいうなら「美しさ」を感じます。
それは対談中でも引用した天使たちのシーンのフレーズにもっとも出ています。
神様を信じる力を僕に
生きることを諦めてしまわぬように
にぎやかな場所でかかりつづける音楽に
僕はずっと耳を傾けている。
かつてオザケンが音楽の力を借りてやっていたことをクドカンからの特に木更津キャッツアイから私は感じます。
生きることを諦めないために、その実践としての「LIFE」=普通を実践していきたいなぁと対談を終えて思いました。
物語は簡単に終わりません。
こうご期待(夢から夢と醒めぬまま未来へ)。
成馬01「ネコズム」
やっと終わりました。
もちろん宮藤さんの仕事は追っていきますし、余裕があれば感想も書くと思いますけど、一作品を作品以上のものとして読みとこうとする作業は今回が最後かなぁと思う。
narkoさんは木更津〜から最後にオザケンにたどりついたけど
俺は何となく岡崎京子さんの東京ガールズブラボーを思い出していました。
あの物語の主役は女の子なんだけど、多分あの頃は女の子じゃないとああいう話は描けなかったんだと思う。
理由は簡単には言えないけど、男の子を主役にするとどうしてもピラミッド構造というかどうしても階級闘争に向かい、いつしかかつてのオヤジと同じ道を辿ってしまう。つまり社会へ出るというゴールへ。
ある意味女の子はほっとかれていて、それが彼女たちのいわゆるキューティーコミック的な文化を創ったんだと思う。
確かに社会での自己実現はいいことだけど、そっちに完全に属したがゆえの弊害がここ数年出てきてて、それと同時に等の若い男の子たちですら一部のエリートを覗いて社会のゲームに参加するチャンスを奪われている。
木更津キャッツアイは多分そういう社会から降りてしまった男の子たちが自力で大人社会とは別のトコで何かを立ち上げようとする話なんだと思う。
2002年から何かに憑依されたかのように木更津キャッツアイを何とか言語化したいといろいろ考えてきましたけど、一つ結論が出ました。
「木更津キャッツアイみたいに生きたい」
多分これだけなんですよね。最初っからいろいろ理屈つけたけど。
もちろん、簡単になれるとは思ってないし、いい年なんだからあれがフィクションだってことはイヤってほど知ってます。
でもこの嘘には乗る価値はあるなぁ。楽しそうだしって思います。
そもそも
この物語自体が木更津という現実の土地名にキャッツアイというマンガのタイトルをくっつけた時点で方向性が決まったのでしょう(木更津死ぬ死ぬ団だったらどうなってたか)
これが池袋ウエストゲートパークだと現実の池袋西口公園をIWGPという現実の風景をフィクション化することで濃い物語を作り上げたのですが。
木更津は人間の行き方自体をマンガのようにしている。
(ただマンハッタンラブストーリーになると全部カタカナになってしまい、その分現実感が薄れてしまった、そこが心配)
現実の世界でマンガのように生きたい。
それはもしかしたら危うい欲望なのかもしれないけど、現実の風景を前提としたマンガ化ならば・・・
いやこれ以上言葉をつぐむのはやめようと思います。
これからは実践編というかもっと具体的なことを書いていこうと思います。
もっと恥かいてあがいていきます。
こうご期待(ニャー)