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今夜の番組チェック

クドカン総論 作品評

文責 成馬01 narko
特に表記がない場合は成馬01


用語集と日誌から、まず木更津キャッツアイ以外の作品のレビューをお読みください。

特に表記のない場合、脚本は宮藤官九郎さんです。


・池袋ウエストゲートパーク
2000年テレビドラマで放送、全11話+スープの回という2時間スペシャルが後に放送。

原作・石田衣良 演出・堤幸彦 金子文紀 主演 長瀬智也 窪塚洋介 加藤あい他
プロデューサー 磯山晶

池袋を舞台にトラブルシューター真島誠が活躍する物語。

説明不用の宮藤さんの出世作今だにレンタル率高し
正しこれ=宮藤作品という定義は必ずしも当てはまらないと思う、この作品は石田依良さんの原作を宮藤さんがタメ口のバカな話に変換し、それを堤幸彦さんがトリッキーな演出でダークな重さを出しさらに役者の方々がそこで好きかってやったけった出来あがった作者不在のドラマだと思うっす。
多分宮藤さんの味が一番出ているのは中盤の3〜8話の1話完結の所でラスト9〜11のグツグツ感は堤さんの味という気がするっス。この辺りは今度分析したいなぁと思います。

井上三太と松本大洋の影響
池袋ウエストゲートパークの予告を見た時うわぁトーキョ−トライヴのパクリかよ!ぜって〜失敗する。と思ったひと多かったと思う。確かに影響は強くあるのですが、トウキョウトライヴがチーマーの血も涙もない薄っぺらな切れる若者の人間関係をシャープに描いたとか言われちゃう類のスカしたものなら。池袋〜はそこに血肉が与えられたもっと俗な一昔前のヤンキーの話に回帰している。あと街のノスタルジックなイメージとヤクザとカラーギャングが争う感じと独特の冷たさは松本大洋さんの鉄コン筋クリートを思わせる。
あの話自体グローバル化の象徴のような子供の国に対し、街の守護神のようなクロとシロが何とか抵抗しようとしてる話と見えるというのはnarkoさんの弁。
不良少年の正義っつーんすかね。
これは90年代と00年代の違いだと思う。
ちなみに井上氏はBOONでトウキョウトライブ2を連載。そっちはスタートこそ殺伐とした感じだったけど、もっと友情とか仲間とかのテーマ(キレるのでなくうまくやるための術つーか)を模索する方へ向かっていて読後感も良く普遍性もある。もしかしたら池袋〜の影響もあったのかもしれない。

演出・堤幸彦
今(2000年当時)もっともヘンな作品を撮る監督さんです。一般的には変な映像や子ネタを使った笑いで人気をはくしてることになってますが、自分はこの人の作るドラマのダイナニズムに引かれます。堤さんのドラマはだいたいフォーマット(ミステリーだったり刑事ものだったり医者ものだったり)があってその枠の面白さを見せるのがだいたい1〜8話なんですよ。で、9、10話でおかしくなって11話で全てをまとめあげる。このまとめ方が好きっス。ただまとめてしまうのがこの人の長所であり短所でして、まとめるために多重人格とか整形とかやや強引なネタをつかってしまうんですね。
池袋〜は好きなんですけどそのヒカリは実は多重人格だったってオチがちょっとどうよ?って感じっス。
多分この最後にまとめるかまとめないか(あるいはまとまらなくてもかまわないと思うか)が宮藤さんと堤さんのテイストの最大の違いではないでしょうか?
あと堤さんはいわゆる大ボスに公権力をもってくるけど、宮藤さんはそういう大ボスを出さないですね。親父をだしても仲良くなっちゃう。この2つの個性がぶつかり合った結果が池袋〜だったんだと思います。またコンビを組んでほしいッス

池袋〜は大事な作品と思うので、さらに詳しく書く予定。
GO
2001年 原作 金城一紀  監督 行定勲 
により映画化 主演は窪塚洋介 柴咲コウ

02年12月5日の日誌より 「GO」をもう一回観た。

昨日テレビ東京系列の局で行定勲監督、宮籐官九郎脚本、金城一紀原作(新聞の予告にわざわざこの三つが表示されてた順番は覚えてない)の「GO」を放送していた。完全ノーカット版だそうだ。わざわざそう表記するということは何かカットしないと地上波では抗議がきかねない内容があるということか?、と邪推してしまう、こういう題材を放送するにはそれくらいかまえないといけないのかなぁと思った。何も言わないでも完全版で放送するなんて当たり前でしょ。ってつい言いたくなる、まぁカットして放送してたら、なおいきどうってたけど、

「GO」は一回レンタルで観ている。そのときの印象で言うと、前半の疾走感あるグレートチキンレースからケンカ三昧のトコ、節々で入るオヤジとオフクロのやりとり、タクシーの運転手、ダメなおまわりさんとのやりとりとかは好きなんだけど、肝心の恋愛の部分と差別の部分(この2つは不可分)がなんかなぁと思い宮籐官九郎さんでも差別はこういう紋切り型になってしまうのかと、ちょっと(他のテレビ作品に比べ)評価が低かったのだが、今回は2度目ということと、ロックンロールミシンで良かったなぁと思った、行定監督の淡々とした恋愛描写のセンスに注目して観ると、こっちはこっちでいいなぁとちょっと逆転した、まぁ理想を言えばこの(行定パートと宮籐パート)2部分が分離せず、うまく作品内で融合してて欲しいのだけど、そう贅沢は言ってられない。
<P>あと一回観ただけでは気付かなかった小ネタ(ヤクザのオヤジの肩に小鳥が乗ってるとか、その息子が女2人つれててさりげなくパンチラしてるとか
(ピンポンのシナリオ集によると、GOでは桜井のパンチラシーンを5〜6箇所、描いてラストは桜井のパンチラのUPで終わる、と書いたらしいが、もちろん採用されなかった(笑)作中ではパンツ見えても気にならないと書いてあったので少し惜しい。それはこの名残だろう)
桜井が椿姫が観たいというのは名前の複線だったんだなとか、そういうのに気付くのが楽しかった。

この作品は恋愛に関する物語なんだと何度も強調されるが、俺も見ている時は在日(コリアンジャパニーズと表記すべきか?)とか関係なく普遍的な男の子の話として観ていた、あのイライラしてる感じ(窪塚洋介はそういうイライラを演じさせるといいなぁ)学級会(この作品では総括)のいばった教師の作り出す抑圧された空間の息苦しい感じ、高校の休み時間に杉原のケンカで賭けをするシーンでのあのぽっかり穴が開いてる時間の感じ、この作品は原作と共に若い世代からも評価されてるらしいけど、この辺の描き方のリアルさに、その要因があるんではないだろうか?<BR>そしてそのリアルさ、だけでなく杉原はもちろんのことパワフルなオヤジ、オフクロ(パパ、ママと呼べに爆笑)杉原の不良友達等の豊かな描写、リアルなだけなら同時期に公開された「リリィ・シュシュのすべて」にも今作品以上にあったけど、この作品はその先に行こうとしている気がして変なマイナー根性を感じず、すごく王道のメジャーなものに感じた<BR>(キネマ旬報で川本三郎氏がこの2作品を比較し、GOの主人公達もいずれはリリィシュシュ〜の男の子たち見たく現実に押しつぶされるみたいなことを書いていて、GOを過去の男の子達へのノスタルジーとして捕らえてたけど、今の俺にはこれ逆に感じる、その意味で今の映画なのだと思う、ただちょっと気になるのは時代考証、初め金城氏の自伝的小説内容にあるので、多分70〜80年代の話と思ってたけど、お宝ガールズとかマグノリア、浅草キッドなどの最近の固有名詞、クラブっぽい場所の描写ちなみにミュージッククリップがヤクザの指きりとかの描写があってちょっとエグっと思った、があるので今の話なのか?まぁあまり気にならないと言えばそうなんだけど、何か混ざってる感じがして、その辺りがノスタルジックなものとして捕らえられた原因かもしれない)

あと、恋愛シーンも行定監督のものだと考えると悪い感じはしない、微笑ましいシーンも多くニヤけてしまう、桜井のちょっと変な感じ(ロマンチックなシーン、雪や流れ星に遭遇すると最悪と思ったり、アクション映画が好きなのにオペラが好きで育ちの良さが強調されてたり)がこの作品の恋愛シーンを恥ずかしくならない程度にいいなぁと思わせてくれる、このバランスがうまい。
一度目に見た時は何だよ!今時これかよ!と思ったホテルでの「血が汚い」の台詞も桜井の初体験のために感情が揺れてて内面が不安定になってるとこに言われて動転してることを考えれば、納得する。当時は差別の描写が古いと思ったけど、こういう在日問題等の差別事態が古い感情を引きずっておきてるもので、今の生活に密接に関わってるものでないので(例えばネオナチ等の移民排斥運動のたぐいにはそれをする人間の中にあいつらのせいで仕事が奪われてるというリアルな(それが事実かどうかは別に本人の中で)気持ちがある)あいう形でしか現れないのではないか?と思った、もしくは杉原の親友が死んだ時のような、ふざけ半分のからかいの延長のような無自覚なものとして(もっとも無自覚が一番タチが悪い気もするが)、その意味で言うと、その後、窪塚洋介氏がある種ネオナチ的な「凶気の桜」に企画から関わり出演したのも流れとしてわかる。だから恋愛描写も差別描写も今回は気にならなかった。

この物語の構造として好きなのは不良モノという枠から始まりながら、その外の枠に杉原が出て行こうとする所だ、杉原が初めてオヤジにボクシングを習うとこでの台詞が象徴的だけど、自分達が狭い枠の中にいて、いつのまにか押し潰されようとしている。
(作中では先輩やヤクザの息子らが、その枠の中で好き勝手やっててもいずれは権力に捕まってしまうものとして描かれる、不良もまた反抗するという役割を狭い枠で演じさせられてるんだなぁと思い切なくなる)そこから抜け出し外の広い世界へ行こうとすると、教師も級友も敵として足を引っ張ってくる、また外にでても、そこも又前の場所と大して変わらず、むしろよそ者として、更に冷遇される、もちろん杉原は強いから力でねじ伏せるので、そこで嫌な感じは受けないけど、その杉原ですら、恋愛の部分で表れるそれに初めてつまずく。初めはその恋愛と他の部分の齟齬が気になったけど、自分のことを考えるとそうだよなぁと思ってしまう、齟齬が逆にリアリティを与えてるとでも言うのだろうか?
最後に窪塚洋介の演技はやっぱいいなぁ、何かキングの頃から演技が身体的な感じがする、の作品以降、本とかガンガン読んでるみたいだけど、変に頭でっかちにならず、この身体性を保ってほしい。

追記・どんなに強い男でも女には勝てない、そういう話ッスね
自分としては小説にあったおいしいトコがカットされてたのが残念。ラストシーンで桜井が「私濡れたのよ」って言うトコとか。

2005/01/01の追記

GO自体については特に書くことはないのだけど、2004年は行定勲監督はGOで桜井を演じた柴咲コウと共に(宮藤さんも確か役者で出演している)映画版「世界の中心で愛をさけぶ」を製作し大ヒットを飛ばした。ちなみにドラマ版は堤幸彦さんが演出。
つまり00年代冒頭からある種のカウンターであった(と同時に古い世代からはある種のノスタルジーとして受け止められてきた)行定監督と堤監督が超王道の難病もの、セカチューに取り込んだのだ。正直しばらくは見る気がしないのだけど
ここで何か堤さんや宮藤さんが始めた00年代の表現(あえていうなら実写のマンガ化?)
が完全に定着し、ある種終わったような気がした。
ちなみに宮藤さんは2004年は舞台を除けばドラマも映画も脚本を書いておらず。自身の映画デビュー作「真夜中の弥次さん喜多さん」に取り組んでいる。
そして窪塚洋介はマンションから飛び降りた。
さいわい命は無事で近々復帰も噂される。
良くも悪くも若さで疾走してきた作品に出ていた彼ら彼女らのその後の動向にここまではっきり差が出るのを見ていると、時間というものの恐ろしさを改めて感じる。
ついでに言えば池袋ウエストゲートパークで主演を演じた長瀬智也は彼女が死んじゃった。というドラマで売れないダンサーを演じていて、こちらも若さだけで突っ走れなくなった長瀬の今の姿を浮き彫りにするような作品だった(ただしそのあがき方がとても魅力的で、長瀬はいい感じで枯れるんじゃないか?と思わせてくれた)
人間は歳をとるし青春も終わる。問題はどう終わらせ、次に行くかなのだろう。2004年はその苦闘が見れた歳だったと思う。
僕の魔法使い
03年日本テレビ系列土曜九時台に連続ドラマで放送された、
感想は日誌から

第4話の探偵物語のパロディをやりだした辺りから方向性が決まった気がする。そう考えると2話は傷だらけの天使で、主人公達の何でも屋の感じは「俺達は天使だ」を思わせる。
主人公は沖雅也っぽいし、そこに今作品の裏テーマ(表は夫婦愛?)の「記憶」が絡んでくる。記憶の誤差行き違いがドラマの鍵になってる。今作品に限らず宮籐さんの作品はキャラが立ちだして役割がはっきりしだしてやっと面白くなる。そこまでは小ネタを楽しむけど、木更津〜は一話からその関係が出来上がって、テーマである死が一話の後半でどーんと出たけど、今作は小田茜演じる西さんと社長と田町さんの三角関係が出来たあたりから広がりが出てきた、主人公夫婦はある種完成してるから、そっちが発展するのが面白い。といいつつ6話ラストでるみたんが田町さんの姿から元戻んないとこからまた面白くなってきた、だんだん設定を壊しはじめてる(笑)楽しみ。
ちょっと他の(TBS系の)宮籐さんのドラマに較べて落ちるのは街の魅力が乏しいトコかな、地元に根ざした何でも屋という設定はもっと生かせる気がする。まぁ今のトコ満足03・5・26日誌より

多分来週最終回かな?最終回近くで主人公と同じ境遇の人間が多数集まって群集劇になるってパターンはすごい好きでこれもそうかと一瞬思ったけど、どうだろう?ああいう瞬間にSFを俺は感じる。
あと井川遙がいい役もらったなぁと思った。前々回の上パンさんというある種宮籐さんを連想させるキャラが出た時は少し心配したけど(しかもシリアスで)その心配はいらないかな、ホント観てる間は魔法にかかってるみたいだ
03・6・22の日誌より

「僕の魔法使い」の放送が終了した。
俺は宮籐さんの作品が好きだから点が甘くなるが、一般的に観ると粗が多かったかなぁって気がする。最後まで笑えて楽しいのだけど、終わってみて思うのは、「これ何の話だよ!!」と思ってしまった。まずいのは頭をぶつけると外見がひっくりかえる症状の問題が解決してないことだ。本当はラスト一話前ノ同じ症状の人間が集まる話を突きつめるべきだったのでは?って気がする、もしくはラストの事務所が乗っ取られる話を前後編に分けて共同体の解散と再構成の話をキチンとやるべきでは?と見ながら思った。
ただこの話自体のテーマである(と思う)夫婦愛にはどっちの話も関係ない(10話は少しあるかな?)というか、みったんとるみたんの関係が極度に安定した揺るぎないものだったから、物語としての揺さぶりがないんだよなぁ、
この変はわりと宮籐さんの味であると同時に弱点なのかもしれない、みんな仲良くなってしまい対立がうやむやになってしまう。例えば木更津キャッツアイのぶっさんとバンビの関係とか山口さんや猫田はもっと悪役として立たないとおかしいとか
思うし、その辺池袋ウエストゲートパークはちゃんと対立の緊張感を最後まで引っ張ってた。この人はもうそれを味にしてるし、作品に漂う楽しい感じが最大の魅力なので文句はないのだが(この「僕の魔法使い」もお笑いバラエティーとしては文句はない)テーマを描くドラマを今後描くのならこの辺がこの人の課題になるのではと思った。でもホントはこんな堅苦しい見方しちゃいけないんだろうなぁ、ただ楽しかったって方が正しいかもしれない

だからこれは俺が自分のために書いてると思って欲しい。
物語にテーマが必要とはいわないがテーマが一本通ってるドラマはやっぱり見ごたえがあるし印象が散漫にならない、作家にはテーマから逃げる人とテーマがある人がいるが(テーマを避けることがテーマの人も中にはいる)
宮籐さんはテーマをもって作品に入る人だと思う、池袋なら「ストリート」とか「若者」だろうし木更津〜なら「死」、GOなら差別、ピンポンならスポコン、それを時に茶化し迂回し、近づいたり離れたりしながらテーマに近づいてく。本人の感覚でダサくならないようにして(若者を描くならあえてダサいものを入れたりして)
そのテーマとの距離のとり方がそのまま作品の良し悪しになってると思う。
その中で一番うまくいったのが木更津キャッツアイでこの作品はどこを切っても死がついて回る。ギャグも死にまつわるものが多い、逆に言うと断固として揺るがないテーマがあるからギャグをぶつけられる。
このぶつかり合いがドラマだと思う。
さて「僕の魔法使い」のテーマは何だったのだろう
、一応は愛なのだと思う、この作品の登場人物はみんなカップルだ(田辺と井川遥や蟹社長と西めぐみあるいは西めぐみと田町さん)毎回出るゲストもカップルの話が多い(家族や親子というのも含めて)それらのパターンをいくつか用意して愛について考えたかったのかもしれない、そのためにあえて異常に愛し合ってるバカップルを出して現代人である我々にカウンターをくらわす。実際一話はそういう構成でうまく言ってた気がする
だから最後はその愛という概念そのものを否定するような人間をみったんとるみたんにぶつけるべきだったんではないだろうかと思う。
田町と西さんは多分そういう役割だったと思う。その意味での悪役の不在が最後に分散した印象になった原因かなぁと思う。
ただそっちがうまくいかなくなった代わりに便利屋と地域共同体とのつながりというテーマが最後になって出た気がする、前に街の魅力が乏しいと感想に書いたけど、もうちょっと早くそっちを掘り下げておけばなぁと思った。
なんか愚痴っぽくなったけど、バラエティとしては申し分ない出来だった、これにテーマが描けてりゃなおいいって話だ、これは贅沢な注文なのだろうか?
03・7・6の日誌より

追記・とまぁいろいろ書いたけどそんなにむきになって観る話しじゃない。笑って後に残さないのがベストかなぁとも思う
ちょっと気になるのは前に見たネタが多々あることかなぁ。
反復ネタでマニアに媚びるのはまだ早いと思う。
あと演劇ネタで脚本家の上パンさんが出てきた回が意外にシリアスだったのがちょっと気になった。ああいう作品内に作家の分身みたいな存在が出るとちょっとヤバイなぁと少し思う。
03・08・22執筆

2005/01/01

この項も特には書くことないかな。
笑って楽しくてよかったね。って思うか、さらにその先の何かを求めるかの違いとでもいおうか。
木更津〜・池袋〜ってのはその先の何かまで射程に入ってると思う。それは出来の良し悪しとは別に。
作家とエンターテイナーに違いとでも言おうか。
いなみに当時はこの枠から出るドラマがめちゃくちゃ面白くて
「すいか」「彼女が死んじゃった。」等の快作を輩出している。
マンハッタンラブストーリー
2003年10月の日誌より

マンハッタンラブストーリー第一話

う〜ん、悪口いうほど酷くないけど、突出してスゴイかというと、そうでもない、失礼な言い方かもしれないけど、つなぎって気がする。
内容としては喫茶店マンハッタンに来る客とマスターとの人間模様で無口なマスターがモノローグで延々と愚痴言ったり突っ込んだりしてるのが面白かった。
泉晴記さんだったかな?ハードボイルドな男が電車の中で幕の内弁当の食べ方に延々と悩むマンガがあったんだけど、アレを思い出した。
あの周りが勝手に動いてマスターがぼやき続けるって手法は結構スゴイと思うけど、その手法に加えて片思いが連鎖して何一つまとまらないみたいになるのかな?ただ手法の面白さが前面に出て肝心のストーリーが弱くなるのはマズイかも?って気がする。STAND UPの時も思ったけど、こういうマンガみたいな演出をする作品は裏にシャレにならないくらい殺伐としたものがないと、生きない気がする、それがないと本当に薄っぺらくなってしまう。マンハッタンストーリーにはまだその殺伐とした部分が見えない、もしかしたら存在しないのかもしれないけど。
あと小泉今日子がイマイチだったかなぁ、宮籐さんのドラマみたいな演出って相性が悪いのではないか?と思った。その点酒井若菜とか森下愛子、松尾スズキはイキイキしてる。まぁ次に期待ってトコだろうか。

今の宮籐さんの立場と舞城王太郎さんの立場ってスゴイ似てるなぁと思う。周りの過剰な期待(70年代生まれの)が出来上がってて、そこからはみ出そうとデタラメなことするんだけど、いやぁ若くて素晴らしいとか言われて褒められて、又外そうとしてっていうイタチごっこになってて、どんどん直球の球が投げられない状況に追い込まれそうで不安、もうちょいほっといてあげなよ、簡単に賞とかあげんなよ、ってつい思ってしまう。ある意味、今が一番つらいんだろうなぁと思う。二人とも
基本的に作品は観続けるけど、過剰な期待はしないでおこうと思う。

2話の感想

赤羽さんが恋したことで豹変したのがよかった。やっぱああいうちょっとバカなキャラの方が宮籐さんの作品では生きる。このギャップを出すために1話はああいうキャラだったのならおみそれしました。という感じだ。
あと、構造がわかったおかげで(つまり喫茶マンハッタンのマスターが人間模様に勝手に悩んで後半の顔を見せない説得で恋愛のキューピットになる、但しとんちんかんな行動もしたりするって感じ、木更津キャッツアイのうっちーの位置にマスターがいるというかとか)今回は見易い。
多分毎回カップルが出て次の回でそのカップルの片方が別の異性と騒動があって、またそのカップルの片割れが別の異性とくっついて、って感じの片思いのリレー形式で最後に一周するんじゃないだろうか?本当はもっと底辺の人間を描写してほしい気もするけど、今回はこれでいいや。

11月の日誌から5話?の感想

いよいよマンハッタンラブストーリーが面白くなってきた。
宮籐さんのドラマは人物配置が安定したらもうチューリップが開いたようなもので、ほっといても面白くなるなぁ。
まさに関係性のドミノ倒し、ついでに視聴率の低さまでネタにしだした(「何が記録より記憶に残るドラマよ」とか「軽井沢婦人」の視聴率の低さに激怒する志倉(字違うかな?)先生とか、僕の魔法使いの上パンさんはちょっと引いたけど、こういう形で脚本家の先生を出すのは全然オッケーだと思う)
正直、宮籐さんは毒を隠してるので、もっと出して欲しい身としては嬉しい限りだ。それにしても自分でABCDEがそのまま頭文字のなってることを言うとは思わなかった。
でもドラマの展開に繋がってるからいいけど、Fが船越英一郎でGが蒲生忍になるんだろうけど、あと主要人物はマスターだけだってこと考えると八話で終わるのだろうか?
(マスターの苗字はわからないけど、多分忍君♀がマスターを好きって展開はバレバレだし、)
せめて木更津と同じ九話くらいはやってほしいけど、視聴率低いからなぁ。8%代だもんなぁ。深夜の方が数字とれるんじゃないだろうか?

今アニメって視聴率じゃなくてDVDやビデオレンタルで制作費分を回収してるんだよねぇ、もちろんほとんどがトントンかそれ以下って状態みたいだけど、そろそろ視聴率で番組の人気を判断するのって考えた方がいい気するんだよなぁ、30パーセントとるけどみんながダラダラ見てる番組と10パーセントしか見てないけどカルトなファンがつく番組、スポンサーだって対応の仕方が違うだろうし。その視聴者の数じゃなくて質でスポンサーが判断できるような構造ができればなぁと思う。
もちろんそうなった場合マニアックな番組ばっかりの今の深夜アニメみたいになる可能性は危惧するんだけど。
ただ宮籐さんもプロデューサーの磯山晶さんも数字欲しいみたいでびっくりした。あんなドラマ作るぐらいだからハナから無視してるのかと思った。

マンハッタンラブストーリー12月、10話の感想

来週で最終回だけど、きれいに終わりそう、今回面白かったのはベッシーの存在。思うんだけど及川光博は及川光博のままドラマに出ている。僕の魔法使いの時も違和感あったけど、この人だけ宮藤ワールドの一員にならず、距離をとってその世界を見てるような気がする。ベッシーは男友達がいないで女の子とばっかり仲良くなる男って設定だけど、そういう男は基本的に宮藤世界では異物、もっというとモテる男だ。
ただ、その異物感はそうとう意識的に設定されてるのかなぁと思う。こういう男も含めて男だって言ってるような。
その懐の広さが好きだなぁ。
それにしても、マンハッタンラブストーリーって男の子から見た女の子感が炸裂してるなぁ、赤羽ちゃんの好きが簡単に嫌いに変わっちゃう感じ、忍くんの変わっちゃう感じ、エモやんの男なら誰でもいい感じ、市倉先生のわかってない感じ(笑)
笑えるように書いてるけど、そうとう残酷な描写だ。
それにしても「軽井沢までむかえにいらっしゃい」が観たい。
映画化しないかなぁ(無理か)

最終話

個人的には成功とはいいがたいです。俺は宮藤さんのファンなので点は甘くなるし、見てる間はこれ以上ないくらい楽しいんですけど、もうそれだけじゃ足りないんですよ。わがままなファンだと思われても、木更津〜や池袋〜を見てしまった以上それは仕方がないんですよね。
もっというとこれが評価されちゃうと方向間違う危機感ってのが俺にはあります。
もっと直球でいってもよかったんじゃないかなぁ?
それこそ「軽井沢まで向かいにいらっしゃい」をそのままやるくらい、ギャグが逃げに見えちゃうとちょっと辛いです。
例えば「僕の魔法使い」って今ある恋愛モノに対してすごい突きつけるものがあると思うんですよ。既存のパターンを否定しつつ更に魅力的なもの(つまりみったんるみたんの夫婦だったり、広吉代理店と商店街とのつながりだったり)を突きつけていると思う。対して似たモチーフである恋愛を描いたマンハッタンラブストーリーにはそれがあったのか?マンハッタンラブストーリーは簡単の人の心が変わるという恋愛のある種の現実を突きつけたけど、それに対する魅力的な何か(もしかしたら喫茶店という居場所がそれだったのかもしれないけど)を提示できたかというと出来なかったと思う。
あとラストのメタ的展開もいらなかったと思う。なんかそういうことしないのが宮藤さんのよさなのになぁとか思ってしまった。ああいう小細工するなら初めから猫背椿さんを主演にしてカッコイイ男性とのラブストーリーを展開するとかの方が何倍もラジカルだと思う。猫背さんじゃなかったらせめて平岩紙ちゃんで。
そういうあんまりテレビドラマ向けじゃないヒロインを使ってなんでもない女の子の内面をえぐるようなドラマこそやるべきなんじゃないかなぁ?と思う。

2005年の1月の追記

結論から言うと恋愛を信じてない人が作ったラブストーリー。だから好きな気持ちは簡単に変化するし相手もコロコロ変わる。
まるで現実こうだろ!って言ってるみたいで恋愛に夢みてる人(例えば当時の俺みたいな)から見ると笑えるけど辛い部分がある。
もちろんこの人間関係の過剰な流動性はとても今的でさすがクドカンともいえるんだけど、他の作品、例えば木更津キャッツアイはもちろん
あまり出来がいいとはいえないドラッグストアガールですらその過剰な流動性に抗うような共同体を作るというその先を提示していた、そしてその中で出来上がる恋愛や友情を今どき懇切丁寧に描いた。
それが味だったんだと思う。
多分喫茶店がその役割だったんだけど、あまりうまくいってないし最後のメタ展開も少し余計でだったら日誌にも書いたけどあのバカヤロ〜の女の人や平岩紙みたいなコが窪塚みたいなコと恋愛するような話の方が面白いと思う
(というかこれだと磯山晶さんの「アイドルと恋愛する方法」なんだけど)
だから他のクドカンドラマと比べてドライすぎて個人的には好きじゃない。
ベッシーとかエモやんとかは好きだけど
アイデン&ティティ
2003年12月に公開された映画作品

原作 みうらじゅん 監督 田口トモロヲ 主演 峯田和伸 

文責narko

narkoの日記03/12/22  04/02/13
から一部抜粋


  
アイデン&ティティを観にいきました。

観にいった映画館が繁華街の中にポツンとある小さいトコで作中出てくるライブハウスみたいな感じ、客層は「サブカル」って顔にシールがはってあるような人ばっかりで男女半々、木更津の時とは違ってとても居心地がよかったです。

映画の内容はバンドブームに乗ってデビューしたスピードウェイが翻弄されていく青春モノといった感じで、原作のみうらじゅんさんの体験から書かれたものです。

私はもちろん宮藤さんの脚本目当てで行ったのですけど、いやぁ〜ダサい(笑)そしてかっこいい、観てて笑いながら泣き、泣きながら笑いって感じで、やっぱいいわぁって思いました。私はマンハッタンラブストーリーは最後の最後で乗れなかったんですけど、理由はこのダサくてみっともない感じが作品になかったからだと思います。

結局なんだかんだいっても業界人の話だしって感じで。

観てて思うのはまずこの映画は笑ってもいいってサインがいっぱい出てくるんですよね、で、安心して笑っていると、真剣な芝居のシーンが出てくる、普通だとここで私は引くんだけど、宮藤さんの脚本の場合、その真剣さに中にさらに真剣な人間のおかしさを見つけ出しておかしくする、でもそれは茶化してるんじゃないんですよ。真剣にバカやってるかっこ良さとでもいいましょうか。

それが観れるんですよね。

多分すごい高度なギャグなんじゃないですかねこういうのって、シリアスになればなるほど面白いんですから、しかもそれでいて泣ける、「泣き」と「笑い」と「かっこいい」を同時に起こせる人それがクドカン(笑)

それとその意図を田口トモロヲ監督が理解してたのがよかった、これみよがしのギャグってないですからね、最初はボブ・ディランの扱いをもっとコミカルにしようと宮藤さんがしてたらしいですけど、それをみうらじゅんさんと田口さんが抑えたらしいです。でもそれがなお、おかしいですよ。ディランは主人公中島にだけ見えるんですけど台詞のかわりにハーモニカ吹くんですよプヒィ〜ってそれがカッコよすぎておかしいです。

あのニュアンスって原作読んだときはわからなかったんですよ、でも実写でやるとすごくわかりますよね。

あとは書いていたらキリがないので絶対書いておかないといけないなぁって思うのは役者さんがいいなぁってこと、岩本というライバルもそれっぽいし、インタビューに来るゴシップ誌のライターを演じた大杉連さんもよかったです。

女性陣もいいですよ、多分普通の人は「彼女」に目がいくと思うんですけど、私は次々と出てきては中島に食われちゃう*4バンドのおっかけの女の子がよかったです*5。なんかパッとしなくてクイックジャパン読んでそうな感じで、最初の出てくるのが「声」ちゃんで次が平岩紙ちゃんなんですよね。木更津でミー子やってた。

原作だと結構悪意があったんですけど彼女達が演じることで妙なリアリティが出てました。元々私が宮藤さんの興味をもったのはああいう女の子を描けちゃうトコなんですよね。

キャバクラの子もそうだし、普通の脚本家が書くと記号にしかならないんだけど、宮藤さんが書くとえらいことになるんですよね。モー子もそうだし、ただそれが内面が描けてるか?ってなると違う気がするんですよ、多分宮藤さんはわかんないものをわかんないけど面白いものとして書いてるんだと思います。

しかもその書き方が愛情あるなぁって思うんですよね。今度はそういう女の子ばっかり出てくるような話を書いて欲しいです。

しかしこの映画観てて思ったのはサブカルってダサいんだなぁってことで、そのダサさを自覚して使いこなせるから宮藤さんの脚本は面白いんだなぁって思いました。

みんなもっとダサくなれ!って感じです。

それにしてもアイデン&ティティって題名すごいですよねぇ。本来アイデンティティってのは唯一絶対のものであるべきなのにそれを男女二人で表現してて、その題名つけた時点でみうらじゅんさんはスゴいなぁと思います。

ところで主人公の中島は何に苛立ち抗おうとしてたのでしょうか?
例えばバンドブームが別のブームによって終わらされて消えたんなら、まだ救いがあるんですけど、見てる感じだと単にギョーカイと客が飽きて消費され捨てられたって感じです。
その無責任さに中島は愚直に怒っててだからこそ

「この歌をロックを単なるブームとして扱ったバカどもに捧げる」

「ロックで金儲けしようとしたバカな大人たちに捧げる、自分のことをあんまり知らな過ぎるバカどもに捧げる、ロックを冒涜する、ミュージシャンもどきに捧げる」

なんだと思います。

ただ個人的にはその愚直に怒れる中島のオトコノコっぷりは今は愛憎半場で、過剰に波乗りゲームに適応してる岩本の方がキツイだろうなぁと思います。

彼は最初から多分ロックもバンドブームも信じてなくて、信じてないから自由に振舞えるんだけど、その分だけ絶望が深くなって。

私は彼の姿を岡崎京子さんの「ヘルタースケルター」のりりこに重ねてみてしまう。結局、中島は抵抗してる分だけ体制に甘えてるというか、ロックにもギョーカイにも幻想を持ってるわけで、ロックの幻想*2の中にい続けられる分だけ幸せなのかなぁと思う。

だからこの話はそのロックの幻想の中にいる中島と何も信じてない岩本の話を無責任でいいかげんな流行の波の上で演じてる話なのかなぁと今は思う。

あと彼女の描写については以前は触れなかったけど、あのコをやさしいとか男性に都合のいい存在とは思わない。多分彼女はかっことした自分があるからある種哀れみをもって中島と付き合ってる、聞こえよく言えば自立してるんだけど、悪くいうと最終的にはそんなに大事じゃないんだと思う。

だからあっさり留学しちゃうし。

むしろ平岩紙ちゃんやまんだらげの「声」ちゃんが演じたような、中島にパックンされたようなおっかけのコの方が中島を求めてるんだけど、肝心の中島は彼女たちをそういう風に見れないでウさばらしの相手にしか見てない。

心の安らぎは「彼女」に求めてて性欲はそういうコで満たす。

何だコレじゃあ、あんたの嫌う大人のオヤジと同じじゃない!というのは蛇足ですけど。

気になるのはアイデン&ティティの感想いくつか読んだんですけど、中島と彼女については言及する人いるんですけど、パックンされちゃうコ達について言及する人っていないんですよね。みうらじゅんさんや田口トモロヲさんも含めて。あの描写ってすごいと思うのは私だけかなぁ。

あと宮藤さんは一貫して今の「原っぱ」について書いてるのかなぁと思います。

ただ作品によってその出方は全然違ってそれは撮る監督によって変化するんですけど、アイデン&ティティってのはそれこそ大人が金儲けのために擬似的に作り出した「原っぱ」をホンキで信じて集まったオトコノコ達がブームが去ると共に忘れられた「原っぱ」に何とか止まろう。元に戻そうとあがく話なのかなぁと思います。そのあがきにグッとくるというか

これが池袋ウエストゲートパークだと子供が好き勝手やってた池袋という原っぱがやがて大人の思惑で潰されそうになる話で、
木更津キャッツアイやドラッグストアガールってのは寂れた町を大人も子供も混ざって街自体を自力で原っぱとして再生させた話なんだと思う。

だからアイデン&ティティってのはどっか80年代的な甘えみたいのが見える。
年齢が上がって見るとそんな浮ついた波なんてすぐ去るだろうし、儲からないなら撤収するなんて当たり前だろ!っつい大人の視線になりがちだけど、多分その甘えを充分自覚した上であえて中島たちは抵抗してて、どんな形であれ生まれた以上は責任とるみたいな姿勢がカッコイイなぁ

といろいろ愛憎まじりますね。

ついでにいうとサブカルってのは今まで責任とらなかったんですよね。次から次に新しいもの、最先端のものに飛びついていくのがサブカルで、私はエヴァ以降オタク表現がサブカルより先行ってるなぁと思って、そっち追いかけてたんですけど、それはサブカルがオタク表現に較べて歴史の蓄積をしてなかったからで、それがここ数年例えば1980や24アワーパーティーピープル等で歴史化されてきてやっと密度で対抗できるようになってきて、勝負はこれからだ!って感じです。

最後に結局アイデン&ティティは何を肯定してるのかというのはこういうことではないでしょうか

いいよねバンドの人たちは、いつまでもバカなことやっていられて、それってすごいことだと思ったよ。神様が君達に一生バカやれる権利を与えてくれたんだよ。それ君たちは大事にしなきゃ駄目だよ

               大槻ケンヂ著リンダリンダラバーソウルより
だから中島たちスピードウェイには一生降りないであがき続けてほしいなぁと思います。

2005年1月の追記
中島にパックンされた女の子たちが何を求めてたかはコチラを参照ください。
個人的にはアイデン&ティティ2で岩本の話をやってほしいです。

ドラッグストアガール
2004年2月公開された映画作品

監督 本木克英 主演 田中麗奈 

文責narko
narkoの日記04/02/10より

物語は田中麗奈ちゃん演じる大林恵子が彼と同棲しているマンションに帰ってきて「おしっこおしっこ」とユニットバスのトイレに駆け込んだ所、知らない女と風呂に入ってる彼氏を目撃するところから始まり
ケンカして家をでた大林がいつの間にか寂れた商店街にたどり着き、いつの間にか、親切に話を聴いてくれた店員さんのいるドラッグストアでアルバイトをすることになるという話になって更にこの町に昔から住むおじさん達四人+ホームレスのジェロニモと大林が絡んで、いつの間にかラクロスで町おこしがはじまるという感じのお話。

わかりやすく言うとオジさん版、木更津キャッツアイ*1に大林恵子というヒメが絡むという感じ。

宮藤さんは若い子を書くとうまいとよく言われるけど、私は宮藤さんは若いとか年寄りとか区別してなくて、みんなバカなんだって定義したトコで書いてるから誰書いても面白いと思ってたんだけど、このおじさん五人の書き方が素晴らしいです。木更津〜みたいにテンションは高くなくてくたびれてるんだけど、会話が面白い面白い、特に柄本明さんが素晴らしかったです。

多分基本的にはアイドル映画で田中麗奈ファンが見るんだろうけど、大林よりこっちの方が面白いのなんの。

以前ヘルシー女子大生日記にkurosawa31さんは木更津キャッツアイをフェイクとして臭いを立ち上げた作品と評していましたが、この作品では更に濃厚で意識的になっている気がします。

多分それは監督の方が松竹で釣りバカ日誌を撮っていた方だということが強く関係がある気がします。

松竹というと「男はつらいよ」シリーズですけど
もともと古きよき日本の下町を舞台にした人情ものを得意とした映画会社ですよね。あとは小津安二郎の映画もそうだと思うんだけど、そういう日本の地域共同体に一番自覚的だった会社にいた人だから宮藤さんの中にある普遍的に人の心を打つ部分を見抜けたのかなぁとか思います。

多分今「男はつらいよ」をやるとしたらこうなるんじゃないかなぁと漠然と思います。かつて寅さんを向かえいれてくれた柴又帝釈天はボロボロで商店街も寂れてる。そこに稀人として無自覚な女寅さんこと大林恵子が現れて彼女におじさん達が轢かれることでちょっとずつ変化して、やがてラクロスの力で町が活性化する。

まぁ最後はちょっとギャグにいっちゃったから個人的にはテンション下がったけど、もともと宮藤さんの作品はそのいい加減なトコも含めて好きなので私は許しちゃうんですけど。

とまぁレビューだからつい難しく書いちゃうけど、基本的には笑って楽しめる作品男の子は麗奈ちゃんのかわいさを*3女の子はおじさんの情けなさとかわいさを味わえる作品です。

あとちょっと思ったのは宮藤さんはやっぱり恋愛を信じてないんだなぁということ、大林と同棲してた男がどう見てもダメ男で、何でこんな奴と付き合ったんだか?って感じです。多分宮藤さんは恋愛よりもおじさん達と大林さんの間に出来た仲間意識の方が好きなんだと思います。

そして私もソコの気分を共有してると言うか、ああいう仲間というか共同体への渇望をある種ファンタジーに昇華して見せてもらってるんだなぁと思います。多分それは来週公開のゼブラーマンも同じで。

ただファンタジーでありながら現状認識が笑いにくるんでかなり厳しく描写してますね。低いところから情けなさダメさを徹底的に描写していって、最後にカタルシスをもってくる。

ある種、王道というかベタなんだけど、この王道をしてるのがマニアックに見られる宮藤さんだというのが木更津〜の頃から面白いなぁと思います。

あと私は以前サブカル系の表現だと宮藤さんをくくったのだけど、もっと幅の広い人だなぁと改めて思います。

考えて見ると大人計画という演劇から始まってテレビドラマでも鬼才堤幸彦と組んだかた思ったらサラリーマンもののロケットボーイもやるし、夫婦ものの僕の魔法使い、恋愛モノのマンハッタンラブストーリーをやってるし。

映画にしてもピンポンがオシャレ系サブカル系のアイテムを総ざらいのものだとしたら「GO」はもっと王道の青春ものだし、松竹人情もののドラッグストアガールをやったと思ったら、ヤクザ映画の雄、哀川翔、三池嵩史さんと組んでヒーローもののぜブラーマンをやる。
そしてそういうジャンルわけすら無効のとりあえずアイドル出して好きかってやってますっていう木更津キャッツアイがある。

こんだけジャンルを超えて好き勝手できる人って始めてなんじゃないですかね?
この幅の広さに結局批評が追いつかないというか。

多分すべてに共通するのは「笑い」があるってコトですね。あとは男の子の仲間意識でしょうか?
何か長々書いてまだ結論は出ないけど、↑のことをやり続ける限り私は宮藤さんを支持し続けるし同時にあんな風に生きたいなぁと思う。
補、ドラッグストアガールの脚本を買ったんですけど、最後にヒメになる十カ条というコーナーがあるんですよ。

私は一個も当てはまりませんでした。ヒメは無理みたいです(泣)

2005年1月の追記
実は結構好きな作品で、ある部分は木更津キャッツアイ以上に
地方都市で生きる問題について扱ってます。
郊外化の象徴としてのドラッグストアと商店街の対立にしないトコを私は評価してて、郊外化の恩恵を少なくとも私は受けてしまっているわけで、
そこを否定してしまうと、何かオウム的な近代主義の恩恵を受けてるくせに文明批判をするようなトコ(確かその種のことを浅羽さんが書いてました)にいっちゃうわけで、成功したかは別にして何とか郊外化と昔の商店街が共存しようという方向にもってったのは好きです。作中竹細工でできたラクロスのクロスが出てくるのはその象徴で。
最後のブレさえなければねぇって感じです。
ゼブラーマン
2004年公開 
監督・三池崇史 主演 哀川翔

2004年二月十六日の日誌から

ゼブラーマンを観た。
本当はもう日誌には感想書く気なかったんだけど、あんまり面白かったので一応書いとこうと思う。
ストーリーはダメ教師、市川新市が主人公で家庭崩壊して教師としてもダメな彼の唯一の趣味は子供の頃観たヒーロー番組ゼブラーマンのコスプレをすることだけ。
もっともこのゼブラーマン自体が低視聴率で7話で打ち切られた幻の番組。
宮藤さんの作品には小ネタの楽しみがあるけど、その小ネタが今回は幻のヒーロー番組というのがうまいなぁと思った。
最初この企画は東映ということもあり仮面ライダー翔を考えていたらしいけど、もしそうなってたら仮面ライダーネタがいっぱい出たと思う。
この作品、哀川翔主演100本記念作品なのだが不思議と哀川翔ネタはない、というか今までの翔さんの作品(というほど見てないけど)のどれにも当てはまらない作品で、新しい地平を目指してる。三池崇史さんの作品はいつも淡々としているけど、そのあんまりサービスしない作風がサービス過多(笑)な宮藤官九郎さんの作風をうまく自分のものにしてるなぁと思った。
評論家の大塚英志さんは「キャラクター小説の書き方」の中で木更津キャッツアイの小ネタがちゃんとテーマに結集してることを評価していたけど、一般の人はそのテーマに行く前に小ネタを楽しむトコで終わってしまう。
それが行き過ぎたのがマンハッタンラブストーリーで個人的にはどうにも乗れなかった。
もし他の特撮マニアみたいな人が作ったらそういうネタの宝庫になったんじゃないかと思う。見ててもそういうわかりやすいネタはほとんどない。
だけど昔の特撮がもってたチープさ(水木一郎の主題歌とかいい加減な特撮、安っぽい敵)が継承されてる。
更に言うとそれはオタク表現(エヴァや平成ガメラ、そして最近の仮面ライダーシリーズ)が技術やテーマの先鋭化と引き換えに失ったものだ。そしてそのチープさの中にはベタベタだけど熱い男の子のヒーロー願望が潜んでいたんだと思う。
宮藤さんの作品には根底にベタベタなヒーロー願望があるんだけど、それをすぐには描写しないで、まず徹底的に絶望的な現実を笑いを交えて描写する。ここで笑いを交えるのは、ソレをごまかしてるからではなくて、更に強調するためだ。
もしその絶望感をこれ見よがしに書いて観客が共感してしまうと絶望が共有されてある種の不幸に酔ってる感じになってしまう。
そうなるとソレはある種の甘美で不幸ではない。
本当の不幸や絶望、孤独は共有されないものだと思う。
そしてソレはカッコ悪い。
(カッコいい孤独は甘美なものになってしまう)

この低い地面をまず観客に認識させて、その上でちょっとずつ主人公が変化していこうとあがく過程が宮藤さんの真骨頂なんだと思う。そしてあがく根拠がいわゆる男の子力、今回だとゼブラーマンというヒーローになりたい同一化したいという願望。
そして最後にその奇跡をサラリと描いてしまう。
それはもちろん一種のファンタジーだ、その意味で宮藤さんのドラマはフェイクというか全部、御伽噺だ。
でもこれをとって現実はもっと厳しい!と揚げ足をとるのは愚だと思う。そんなこと観客が一番わかってる、むしろ荒唐無稽な木更津キャッツアイ風にいうと「ありえね〜」トコまで行ってしまうことでそのことを徹底的に自覚させられてしまう。
俺はフィクションは御伽噺でいいと思う。現実との落差をうめるのは受け手の役割だ。それに現実が簡単にかわるのもまた現実でその距離感は時間が立つほどズレてしまう
そこまでフィクションに期待してはいけない。
単純に進む先の象徴であればいいと思う。

はじめカッコ悪く情けなかった市川が車椅子の浅野さんと出会いふとしたきっかけで変質者カニ男と戦うことでちょっとずつヒーローとして振舞うようになる過程が素晴らしい。
(ただし悪役との対決シーンはあっさりしてる、このぞんざいさが特撮の構造に対する批評なんだと思う)
俺はアニメや特撮は嫌いではなく人よりは見てると思うけど、あの手の作品にある棚ボタ的なある日突然、悪の組織に改造されて、とか父親の作った巨大ロボットを預けられて、みたいな押し付け巻き込まれ型の話はいやだなぁと思う。
それは何か裏返しの甘えというかかまってくれて当然っていうエリートの子供っぽさを感じる。
宮藤さんの作品の男の子たちはみんな社会から見捨てられたような、ほったらかしの子たちだ。彼等はだから自力で何とかしようと動きあがく。マコトしかりぶっさんしかり、彼等は自分の状況を変えてくれる誰かなんて期待してない。ことばにはしないけど自分がまず動かなきゃいけないことを知っている。
市川もそしてゼブラーマンもそういうヒーローだ。
だからかっこいいのだと思う。
最後に役者が皆すばらしいと思った。
特に渡部篤郎がよかった、恋文の時はどうか?と思ったけど。
あと鈴木京香、どうも宮藤さんは若いコより年長の女盛りからちょっと離れて安定した女性を書く時の方が理想が出る気がする。逆に女子高生とか書くと殺伐とすると思う。多分それは世の中に乗れてるか乗れてないかの違いが出るんだと思う。
それと三池監督の功績なんだと思うけど宇宙人に乗っ取られた小学生が暴走して駄菓子屋を襲うシーンが素晴らしかった。特にスイカをぐちゃぐちゃにするシーンが印象的。
多分三池さんは台詞よりも映像で見せるタイプなので、宮藤さんが書いた部分もうまく映像で表現したり追加したシーンがあるんだと思う。

2005年の追記

特になし、ただ思ったよりオタク層には届かなかったし哀川翔リスペクト雑誌、映画秘宝でもイマイチ扱いが悪かった気がする。
この壁は何だろうなぁと時々考える。


文責narko
narkoの日記 04/02/19より

哀川翔主演100本記念作品。

内容はかつて打ち切りになったヒーロー番組ゼブラーマンのマニア
のダメ教師市川新市が、ゼブラーマンのコスプレをしたまま外にでた時変質者カニ男と戦ったことをきっかけに本当のヒーローになっていく話です。

シナリオブックと映像を比較すると、シナリオだともっとコミカルで、いつもの宮藤さんのテイスト(当たり前だけど)で、映像化されたものとこんなに変わるんだとびっくりしました。

その意味で良くも悪くもアクの強いクドカンテイストを三池監督が腕力でねじ伏せて自分のものにしたというか、わかりやすく言うと会話で見せてたシーンがあるとするなら三池さんはソレを一枚絵で表現する。

あくまで映像で勝負してるんだっていう気概を感じました。
ただ個人的には三池さんの作品はそんなに好きじゃなくて、何というか、いつも最後まで入り込めないんまま見終わるんですよね。
唯一良かったのは「DEAD OR ALIVE 犯罪者」であのラストの流れくらいまで放り投げてくれるとこっちも認めざるえないなぁって感じで。

もっと言うと漢(おとこ)の世界だなぁって
この人は女がいらないもしくは母性かセックスしか求めない人なんだなぁとか思ってしまいます。

まぁ私がいう所の「俺」系の最たる人で、私は「俺」対「僕」では基本的に「俺」を支持してるんですけど、「俺」系の男の子ってのは基本的には女の人にセックスか母性しか求めてないくて、私みたいな屁理屈ちゃんは居場所ないんですよね。むしろコミュニケーションとれるのは「僕」系の人で、その分イライラとかあってぶつけちゃうみたいな感じってまんまそれじゃ「蹴りたい背中」じゃん(笑)

そういうわけで三池さんの作品は面白いけど居心地悪いなぁって感じです。

じゃあ宮藤さんはどうなのか?って問われると微妙で、どうも宮藤さんは「俺」の中に「僕」を隠しもってるのが透けて見えるんですよね。

「僕」の男の子ががんばって「俺」になろうとしてるというか、「俺」にあこがれる「僕」というか、その中間のトコにいるからどっちも内包しつつ更に別のものになってくれる可能性があるのかなもと思います。

何だか全然ゼブラーマンの感想になってないですね。
基本的に面白いです。何かティム・バートンの「エドウッド」を思い出しました。もしかして特撮のチープさを刺して「なっちゃいねぇなぁ」と思う人がいると思うかもしれませんが、あれはわざとチープにやってるんだと思います。そもそもかつて放送されてたゼブラーマン自体チープでしたからね。

あの昔の特撮のベタベタで安い、でも熱い感じを再現したかったのが狙いかなぁと思います。しかもその姿勢が今放送中の仮面ライダーシリーズや平成ガメラみたいな、先鋭化*3することで失った何かを突きつける形になっていて、いい意味でのオタク表現に対するアンチになってるかと思います。その意味でオタク業界の方々がどう反応するか楽しみなんですけど(笑)
ただ私はこれで宮藤さんの表現がオタクに届くと思ってたけど、かえって敵を増やしたかと心配で。
ちなみにお客さんには普通の親子ずれもいてびっくり、結構エグいシーンもあったのでいいトラウマになったかなぁと思います。


補講 ダサさ

綿矢りささんの「蹴りたい背中」でもそうなんですけど、今私の中でいい表現をする人は戦略としてダサさを保とうとしているような気がします。
木更津キャッツアイ風にいうとそれは「普通」で、普通であること、自意識過剰にならないこと、良くいえば身の丈にあった表現、悪くいうと狭い世界観なんですけど。
宮藤さんは多分ダメな人ダサい人をネタにする方が笑いがとれるからという選択で、そういうダサさを使ってるんだろうけど、それが不愉快に私がならないのは彼等を決してバカにせず、むしろ愛情をもっていて、フィクションの形を借りて彼等を活躍させてくれます。

むしろ女子高生とかイケメンの彼氏とか、そういう一般的にイケてる人の方が抑圧する側にいて、あんま愛情がなくて。
実はこの流れは例えば松本大洋さんのマンガでもそうで、松本さんが描く世界は基本的にオシャレな世界ではないんだけど、あの絵で描かれることで、オシャレなものとして世に流通してしまったんですよね。

今ダサさに彼ら彼女らが何で止まろうとし、何故それが広い支持を集めてるのか?と同時にちゃんと見ない読まない人からは流行のもの、オシャレな話題先行のものとして切り捨てられるのか?
結構そこが歯がゆかったりします。

ここでダサいとは何か?オシャレとは何か?について考えてみたいけどその体力が私にはどう考えてもないので保留にしますが、私には宮藤さんにしても綿矢りささんにしても、あえてダサさを選んでる気がします。

だから話題になった綿矢さんの芥川賞でのあの服装はある種、挑発的というか。

あとインタビューなんか読んでてもこの人は自分が本を読んでないことを隠さないし、平気で最後まで読めなかったっていいますよね。

あの頑なに自分をキープしようという姿勢がすごいなぁと思いました。
蹴りたい背中で私は何度もハツの視点ヤバッと心配してたんですけど、一方でああいうコ(男女含めて)に期待もしていたりします。

極度の客観性をもってしまい、輪に入れないってことは逆に頑なな自分をもっているということで、彼、彼女はありものの個性でわかりやすいキャラを作ってごまかそうともしてないわけですし。

多分そういうコは本当は濃密なコミュニケーションを求めてるんだと思います。
もちろん私も。
輪に入れないのはその反動で。
だから、ダサさというのは簡単にキャラを作らない私、どこにも属さない私という表明かな*6と思います。だから世にダサいものがある限りそれをネタにし続ける限り宮藤さんは安定かな?とか思ってみたりします。

でもそうやってメディアにのったダサさはオシャレなものとして錯覚されて世に流通してしまうんですよね。だから綿矢さんのあの服装も世のオシャレさんに勘違いされてワタヤーなんてことに・・・
なるわけないか。

2005年1月の追記
ダサさについてはもう少し考えてみたい。
当時はいいと思ったけど、こういうひねりにひねった形でしかこういう話を作れないのは宮藤さんのというより今の日本のサブカルチャーの厳しいトコかもしれない。
特に今韓国映画が面白くてその問答無用なパワーと松尾スズキさんの「恋の門」なんかを比べるとそう思ってしまう。こっち系の表現も一周したのかもしれない。

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