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今夜の番組チェック

9月


9月20日(土)

山田風太郎作品を読み漁っている
あれから読んだのは
忍法忠臣蔵と信玄武芸帖と伊賀忍法帖それと八犬伝、基本的に全部面白いけど、批評的なことを書くには難しいなぁ、
基本的には甲賀忍法帖と同じで時代と忍法のバリエーションが変化したもの(こういういいかたは貶めて聞こえるかもしれないけど、違いますよ)なんだろうけど、それ以外にも山田さんの乾いたニヒリズムみたいなものが気持ちいい、あっさり人が死ぬのも悪くない、
平行してKAWADE夢ムック追悼特集「山田風太郎」を読んでいてどういう背景で作家としての山田風太郎が出来上がったかは書いてあるので(戦争体験とか)そこに対する関心はなく、今関心あるのはどうして面白いかという技術論だけなんだけど、それでも、この人の思想というか考え方は好きだ、結構呑気なトコとか、ついでにいうとこのムックに載ってた「開化の忍者」も面白い、面白いけどオチが酷すぎる、私ゃ泣けました(笑)
ただ今まで読んだ中では八犬伝は面白さが別種の、もっと作家の内面というか、自分が出ているのではないかと思った(ちょっと読んだだけでそんなこと言うなと思われるかもしれないが、だからまだまだ読むつもり)
この作品は虚の世界(里見八犬伝の山田風太郎による翻訳?とでもいうもの)と実の世界(里見八犬伝の作者、滝沢馬琴の執筆過程とその身辺雑記)の2パートで進んでいく、いわゆるメタフィクションだ。でも普通のメタフィクションって自分の書く物語を相対化するというか、物語を信じていない人が書くことが多いのだけど(前に読んだ「アラビアの夜の種族」も残念ながらそういう印象を最終的にもった)
でもこの作品に限っていうと、物語を信じているというか好きな人がいや滝沢馬琴が物語を必要としていると思える、だから物語として虚の世界も実の世界も面白い、両者が相互に補完しあっている。
実の世界では馬琴の他に葛飾北斎、鶴屋南北、渡辺崋山etc実在の江戸の有名人(あとねずみ小僧も)が出てくる、忍法帖では実在フィクション両方の人物が出てくるが、ここではそれが虚と実に分けられている(といってもまぁ今の時代から見ればどっちも虚の世界に等しいのだけど)一つ実の世界の描写で印象的な部分がある、馬琴と北斎が鶴屋南北と話すところだ、多分この話を読む人はここと最後が一番残ると思う。以下引用

「へえ、そうおっしゃるなら・・・・・こんなこと申しては汗の出るほど失礼ではございますが、ま、もの書きとしてご同業のお方のおたずねだと思って申しあげますが・・・いま、虚の芝居の中の嘘ばなしという言葉がでましたが、いわば実の世界と虚の世界を重ねることで、ただの加え算じゃなく、掛け算のような妙な味が出てきやせんかと、あたしは考えたわけで・・・」
〜中略〜
「あれは、加え算でも掛け算でもなく、引き算だ」


と言って、馬琴と南北がけんかします、つまり南北は四谷怪談と忠臣蔵をくっつけた芝居(多分深作欣ニさんが監督した作品はこれが原作なんですね)を上演してそれを見た馬琴が忠臣蔵を嘲笑していると腹を立てるのだがそれに対し南北は実は四谷怪談が実で忠臣蔵の方が虚だと思ってると言うんです、多分これは、南北がどっちも信じてないってことだと思う。私は南北について知識がないから言及できませんが、物語を作る時に何かを茶化すために作る人っているんですよね、いわゆるギャグマンガなんかそういう人がほとんどだけど
それに対し馬琴は

「どちらは実か、どちらが虚か、それはその人の見方次第だろう。あんたが実と思う芝居をかかれるのはけっこうだ。が、それならなぜその世界だけをかかれん?世の人すべてが、その忠に酔いその儀に酔う美酒のような芝居に、なぜあんな陰惨背徳の毒を投げこまれる?私g、ツジツマがあわんというのは、その怪談の筋ではない。この根本の二重のカラクリをいうのだ」
〜中略〜
「しかし、曲亭先生」
「先生のお作も、カラクリ仕立て、また怪異のお話が多いのじゃございませんか?」
「私の怪異は、読者を面白がらせるための便法だ。私のカラクリ仕立てはツジツマが合ってる。あんたの怪異は、ただ人をこわがらせるだけだ。あんたのカラクリはツジツマが合わん」
「なるほど、そうおっしゃれば・・・・失礼ながら先生の怪談は、あまりこわくはございませんな。それから、先生のカラクリは、ただツジツマを合わせるだけのように拝見いたしますな」
〜中略〜
「もしあたしの怪談がほんとうにこわいなら、そりゃさっき申しましたように、あれは実の世界をかいたものだからでしょう。あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるで、ツジツマの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。―−―― 」
馬琴はうめくようにいった。
「ツジツマの合わん浮世だからこそ、ツジツマの合う世界を見せてやるのだ」


いやもう素晴らしいですね、多分ここで山田風太郎さんはどっちに感情移入してるってわけではないんだと思います。多分どっちも、そして間にいる北斎(北斎は画家ですがどっちの立場でしょうか?多分両方、もしくはもっと直感で手が先に動いてるって感じかもしれないです)も含めて多分どの作家の中にも誰かはいるんだと思います。
ここまで作家に書かれたらしょうがないですね、そうとう頭いいなぁと思います。しかもこのくだりが作家論でなく物語の馬琴像と直結していて、全体で語られる馬琴の半生とうまく呼応してて、説得力をもたせています。ちなみにこの後、馬琴はねずみ小僧とすれ違います。

そして最後は「虚実冥合 四谷信濃坂」つまり虚と実が一緒に語られるのですが、といっても別に八犬士と馬琴が出会うとかそういう話ではありません(笑)
どうもこうなったのは実際の八犬伝がそんなに面白くないというか後半に入り物語のツジツマをあわすために話になってしまったからという側面があるみたいですね、読んだ印象も、八犬士がそろった後はつまらなそうです、先の引用であったツジツマをあわせるということがマイナスに働いたようです、その代わりそこまでして書こうとする馬琴の凄さが物語の核になっていきます。そしてラストは美しいです
多分、自分には理解しきてれない部分がまだ多々あると思います。
でもこの作家論の部分だけでも読んだ意義はあったなぁと思いました。
9月15日(月)

stand up!!放送終了

まず金曜日のミュージックステーションに「嵐」が出演し本作の主題歌「言葉より大切なもの」を歌っていて、これが思いのほか心に響き、気付いたら録画した映像を何度も観て聴いてた。
いっしょにモーニング娘。(のさくら組とおとめ組)も出てたけど、圧倒的に嵐にときめいている自分に困惑した。
いやぁ何だろうなぁいいわぁ「嵐」、少年の凛とした部分がよく出てた。逆にモーニング娘。とかの方が世俗にまみれてて、それはそれで楽しめるんだけど、やっぱりアイドルは嘘でいいから綺麗なものであってほしい、かっこいい人はかっこよくあってほしい、その願望を久々に見せてくれた気がする。美しい嘘を見せてくれてありがとう。

ということでstand up!!の感想なんだけど、これもある種のファンタジーというか願望なんだよね。今時あんなに自分の子供を監視する親っていないだろうし、もっと無関心だと思うんだ。主人公達4人がカッコイイのに童貞ってのもかわいい女の子が最後の最後に「私バージンなの」って言う例のパターンの逆で、じゃあ誰の願望なのかと行くと鈴木杏ことチエの願望なのだ。だからこの話チエから見るとすごーくすんなり入れる。
そしてチエがなんでそんな願望を欲したのか?という答えが10、11話の辛い現実何だと思う。全体に漂う嘘くささに対しここだけが生生しく救いがない、しかも好きだった人に裏切られたのだからタチが悪い(もって回った言い方ですが勘弁してください)

この話チエ、の存在が一番浮いてるのがずーと気になっていたけど彼女だけが現実感がありすぎるからなんだな、
お姫様になってカッコイイ男の子×4人に守られたい(できれば男とか女とかの関係を抜きにして)8話で純潔会員番号ナンバー1,2,3,4ときて5とチエが手をのせて、宇多ヤン(だったと思う)がちょっと迷って「よし許す」って言うシーンがあるんだけど、このシーンがすごく好きだ。多分あそこに行くためにこの作品はあったのだとひそかに思ってる。ちょっと欲を言えばチエの視点からだけ物語を再構成してほしい。あのボケた視点の一人称小説みたいな、でもそれは映像としてはつらいかも、小説にすれば最適な気がする。

堤さんの演出(10,11話)に関して言うと恋愛寫眞の印象に近くて観てる時はダレた印象が続くんだけど、締めるトコは締めている。物語の最小限つかんどかないといけないトコをつかんでいるなぁと思った
この人はその意味で構成力があるんだろなぁと思う。

始まった時はウォーターボーイズと較べて観ていていろんな意味でこっちの方が面白いと思っていたけど、ウォーターボーイズがちゃんとしすぎてて最後に置いてけぼりくった印象で結果的にこっちの方がわかるなぁと思った、出来が良すぎるのも考えものだなぁと思う。
(この変ノベライズに堤さんは4人をダメなままにしときたかったと書いていた、成長物語ってのもその変のあんばいが難しい、ウォーターボーイズの場合、最終話であぁ遠くにいっちゃったなぁと思った。あんまりダメな奴のままってもはキツイけど簡単に成長されるのも勘弁してほしい、stand up!!の場合その按配が良かった。)

山田風太郎「甲賀忍法帖」読了

これはスゴイ!あぁ原点はこれだったんだなぁと改めて思った。
俺はこういうのが好きなんだよ。ってことだ。
これが嫌いな人はもういいって言い切りたくなるくらい俺の少年漫画魂に火がついた。あぁ分析できない、面白すぎて、思いつくままに良さを箇条書きしておこう。
1、10対10の対決
2、敵も味方も特殊能力を持っていてこれがギリギリできるかも?と思わせる所
3、その技に対する医学の見地乗っ取ったスレスレの解説
4、トーナメント戦の組み合わせの絶妙さ
5、その背景にある歴史的事実と実存する登場人物
6、敵も味方も容赦なく死んでいく、命の散り具合の見事さ
7、美形キャラもフリークスキャラも同じように大切に扱う
8、作者の嫌味でないニヒリズム
9、カッコイイ
10、エロい
とこんなトコだろうか?まだまだ読む予定なので更に考えてみようと思う、しかしこの作品の忍法が元ネタの敵をいっぱい思い出した。

9月10日(水)

エンターテイメント勉強中、
今日は橋本治さんの「窪変源氏物語」No、1と山田風太郎さんの
「くノ一忍法帳」をを読んだ。
できるだけ古くて物語のエッセンスだけ残ってるような作品を読もうと思ってたけど、さすがに原文は読む力がないので橋本治さんの
翻訳?したものを読む、でも読んだ印象は古典というより今の話だった気がする。光源氏がプレイボーイになる前の話で、これからモテモテライフを歩むのだが、いちいち女の素振りに振り回されて混乱するようすが生生しい。
でもちょっと今読むべきものかなぁと疑問に思う。もっと今はプリミティブな、内面なんか知ったこっちゃねぇよってもんが読みたいのだ。

その意味でくノ一忍法帳はすこぶる面白くてこれこそ俺の思う
エンターティメントの原型と思った。
BSマンガ夜話の「キン肉マン」の回で夢枕獏さんが5対5の系譜のついて話していて、その元祖に山田風太郎さんの作品を上げてた
(もう一つは今昔物語集かなんか)のを覚えてたけど、この構造かぁと関心。
まず2大勢力があって(今作品では徳川と滅亡した豊臣)豊臣側の子を宿した5人の女(と徳川の千姫)を5人の忍者が抹殺しようとするいわゆるバトルもの、それぞれが複雑怪奇(今作品では全部エロネタ、二度SEXすると死ぬ術とか精液をかけられると淫乱になる術とか、それぞれにそれなりの理屈がついているのが面白い)荒唐無稽
赤ん坊が子宮を移動する術のくだりとかどうなんだ?って気もするけど、問答無用によませてしまう。
いいなぁと思ったのはどんな技でも「忍法〜」と頭に忍法とつけるとそれなりに納得させられてしまうトコだ
基本的にリアリティの部分は歴史にまかせて(春日局や徳川家康がでて史実通り行動し実はその裏ではという描写をしている)あとは
忍術勝負という潔さ。
これが時代劇の強さだなぁと思った。

二作読んで思ったのは物語ってのは基本的に権力者の下でのみ起こるいざこざで、貧乏人には縁がないってことかもしれない。
今って絶対的な権力がないから(あってもしょぼい例えば総理大臣ですらハーレムもってないし)こういうのをやろうと思うとそうとうつらい、一部ノワール小説ではヤクザに好き勝手なことやらせてて面白いけど、あれは昔でいうとこの戦国大名みたいなものかも知れない
ヤクザ映画と時代劇ファンは微妙にかぶってる気がするし

ここにあるお約束をうまく置き換えれば、いい形になるのだろうか?
もう少し読んでみようと思う。

ウォーターボーイズのドラマが終わった。

「フジテレビってすごいなぁ」というのが正直な感想、当てるためならなんでもやりまっせって感じがでてた。ある意味、感心、ある意味もういいやと10話の時点で感心がうせつつ最終回を見た。
特にシンクロの曲で福山雅治の「虹」(この作品のエンディングテーマで最近発売された)がかかりそれをメンバーが歌うのにはまいった
う〜んエンターティメントとしては正しいんだろうなぁちゃんと盛り上がったし大団円で、その後こいつらがどうなったかなんて知りたくないし(あと桃色片思い使うのも、映画版だとここはパフィーの「愛のしるし」なんだけど、この差は結構でかい)
映画版も基本的には同じなんだけど、もっと照れが作品内にあったけど(そもそも男のシンクロって競技を選んだからこそ、スポコンが描けた面もある)テレビ版はシンクロやる男=かっこいいってことに疑いが微塵もない。その差が気にならない人にはどうでもいいんだろうけど、俺はすごい気になる。
何かコレ毎年やって新人男優の登竜門とかになるんじゃないだろうか?と思ってしまった。それはヤだなぁ
追記、映画版でも思ったけど、シンクロシーンって若い男の裸をいかに効率よく見せるかって意味ですごいなぁ
ほとんど、ストリップショーだもん。
男女逆だったら果たして感動できるのか?
こういう発想自体野暮なのかなぁ?

9月8日(月)

新しい投稿用の作品の構想をしている。その準備として決めたことが一つある。
それは古典を読もうということだ。
どうにも煮詰まるのは自分の中に物語の基礎となる部分がないからではないか?
そしてこれは今現在現役の作家にほとんど言える傾向だと思う。
そこで物語をつくれないから描写の精密化に向かったり自分の内面をさらけ出して
近代文学気取って悩めば今っぽくなるのかもしれないけど、その今だってここ10年以上続いている。あとはメタか、まだ勉強中だからいい加減な意見と思って読んで欲しいけど、あらゆる表現は

お話のあらすじを伝える段階(古典)

お話のリアリティを確立する段階(リアリズム)

お話を作る作家の内面を見せる段階(メタ)

読者の性癖に答える段階(萌え)

おしまい

という感じで進むのではないだろうか?
これを物語エントロピーの法則という(嘘)
で、大抵の表現はリアリズムに向かう時点で大衆性が失われて、あとはどんどんマニアのおもちゃになって痩せ細っていく。(その代わり権威みたいなのは上昇)

ちなみにリアリズム期には二種類あって、まず見える部分風景とか体とかを絵のお約束でなく、目に映るまま描こうという現実の模倣の時期で
その次に目に見えない感情の部分つまり内面を描こうという時期だ
マンガで言うと劇画が前者で24年組の少女マンガが後者

で、今の作家で古典を描いてる人っていない気がする、下手をすると古典をしらないまま作家になった可能性すらある。
これってある種の進歩史観の弊害だ。何事も基礎あっての発展なのに。

と思ったので古典を読もうと思った。
でも古典って何を指すのか?

なんとなく頭に浮かんだのは神話と聖書、あとは源氏物語とか平家物語
あとは時代劇、講談、落語
多分前近代のものだろう。そこで基礎を身につけ、できればそのままそれを描く
それができることが今後の課題だ。
それを多少時間がかかってもやっとかないといけない気がする。
だいたい今の世の中の中途半端なノスタルジーブームは大嫌いだ、だったら徹底的に遡れば一等賞だと思った。

「アラビアの夜の種族」を読んだ

古川日出男さんの作品は基本的に何かを作る話と物語の二重構造で話が進み
何かを作る方の話の時はすこぶる面白いのに肝心の話の方が何ソレという感じで尻つぼみに終わってしまう、今回もそう思った。
しかもその作るものが究極の物語だからタチが悪いと思う。
(何かを作るといってもその場合の何かは表現に関するものだ「13」では「神の映像」、「沈黙」では究極の音楽で今回は究極の物語)
物語はナポレオンの侵略から国を守ため読んだ人間に災いを起こす本を作るという筋書きで、物語を作る話とその作られる物語の内容という二十構造で進む。

でその物語の方が面白すぎる。言ってみれば剣と魔法のファンタジーなんだが、これを圧倒的な具体的な物量で積み上げていく。
作中魔物が住む地下迷宮が出てくるのだが、ここを攻略するためにまず狂人を送り込みその後、自称勇者や魔法使いが住み着きギルドを作り街ができて行く過程がほんと楽しい。
だから思うのはこれだけで何でやんなかったのかなぁってつい思ってしまう。
やっぱただの剣と魔法の話だけだとバカと思われると思ったのかなぁ?
今物語を紡ごうと思うとこれだけの助走が必要なのかなぁと思ってしまう。
もっとこれで現実(この作品内の)と本がうまく絡めば認めるんだけど、沈黙もそうだけど、終わってみたらアレ?って感じがどうしてもある。
もうメタはいいよと思った。
追記、この作品、翻訳小説という建前があるからなのか?本のパートの文体がえらいヘンというか呑気、ちょうどマンガ夜話で杉浦茂さんの回を見てたから思ったのかもしれないけど、その感じだ、唐突に「てやんでぇ」とか「〜なのであります」みたいな江戸っ子口調が出る(実際は違うのかもしれないけどニュアンスが)だから壮大な話なのに呑気な感じがある。それはちょっと面白い。


9月7日 (日)

映画版ドラゴンヘッドを観た。

正直、ネット上の前評判が悪すぎたので、ある種の覚悟をもって観にいったのだけど、そういう視点ではじめに見たからなのか?「まぁそれなりによかったんじゃない?」という気持ちに落ち着いた。

もっともそういう感想を製作側は一番いやがるのかもしれないけど、どうやってもドラゴンヘッドという題材を料理して、万人が望むようなものに仕上げるのはそうとう難しいと思う。個人的には原作にあったメッセージ性を一切排除した純粋なパニックものでもよかった気がするが、さすがにそれは作品に失礼と思ったのか?ちゃんとテーマも消化しつつ説教臭く、あるいは説明臭くならなかったのがよかったと思う。

さて細かい内容について触れていくと、どうしてもマンガと映画の時間軸について考えてしまう。
マンガ版の面白さの一つに徹底的に省略を排除しているところがあると思う、細かい動作や心理状況を一々拾うことで積み上げてきた段取りがあってあの怖さは成立する。
具体的に言うと、映画も原作と同じようにトンネルに主人公達が閉じ込められるところから始まるのだが、ここの描写が多分30分くらいしか(あるいはもっと少ない)のではないだろうか?マンガだと主人公のテル君が目を覚まして回りの状況を確認してまず明かりを探して食糧を探して生き残りの人間を探してという段取りが事細かに描かれている。
そしてトンネルから出られない、出ても何があるかわからないという絶望的状況が少しづつ理解されていくから
いっしょに生き残ったノブオがおかしくなる過程もこちらに伝わるのだが、その時間が裂けなかったため、はじめからおかしかった奴みたいな扱いになってしまった。
(役者の山田孝之はそのノブオをうまく演じてたと思う、だから、この過不足は構成上のミスだと思う)
あとアコが出会い頭に生理になって泣きわめくシーンがばっさりカットされたのもちょっと惜しい、まぁSAYAKAを使う時点で無理かなぁとおもったけど、このシーンと後の服を脱がされるシーンもなくて、あれがないのも惜しい。
ただ意図的に外したのかなぁという気もする、そのくらい性の部分に関しての描写はない。

多分一般の人がドラゴンヘッドを面白いと思うポイントはトンネル編だと思う、それ以降は最初のつかみがよかったから読んでいって、最後になんだよコレーってパターンだと思う(俺はほぼ信者なので全肯定だけど)から、もし商業的なことを考えるならトンネルだけで2時間でもよかった気がするそしたら予算もそんなにかからず、ここで評判がよければ2という形で続編を出すのもあり出し、
でなければバッサリカットして(テルもアコも出さず)地上の世界だけを使ったパニックものにするべきだと思った。
その意味でこのシーンはちょっともったいないなと思った。


さて地上に出てからだが、エピソードとしては浄水場のシーンとテル君の薬をアコと仁村が取りに行くエピソードとおばさんが出るくだりはほとんどカットされている。
そして登場人物の設定も変えられている。その意味でラストはほぼ同じとしてもほとんどオリジナルといっていいと思う
それがわかってからやっと楽しめた。
ただはじめの暴徒にテルとアコが捕まるまでのトコは半信半疑で、唐突に仁村と岩田が現れテルとアコを助けるとこからが楽しめる。
特に仁村の描写がよかった。演じるのは藤木直人でこの人のもつ薄っぺらな感じと仁村の安いカリスマ性が妙にリンクした、高校教師の時も思ったけど、身につかない観念的な台詞を言ってる感じがいい、そして中盤はこの仁村がいかにもな台詞をいいながらキレた行動をしていき、最後にアコを奪いテルを殺そうとする。
そこで灰の雪崩がおき全員巻き込まれあっさり仁村は死ぬ、ここであっさり死んだのには、うまいなぁと思った。
個人的にはもう許すという感じなのだけど、仁村はマンガではどんどんカッコわるくなっていく、まぁそれは狙いなのだろうけど、最後のテルとの生きることとは?のやりとりははっきり言って失敗で、言葉で説明しなくてもなぁと思うとこがある。正直映画にすると聞いた時、ここは入れないでほしいと思った。だからあっさり退場させることでうまく逃げきったなと思った。
あと岩田の描写がかなり変化していてはじめから最後までうるさくてうっとうしい、唐突に竜脈が乱れて電磁波の影響で人間が狂ったみたいなことを言い出すが、狂ったのはお前だろうと思ってしまう。(逆に仁村の方がしっかりしてるなぁと思ってしまう、実際には両方なんだろうけど)
ただあの電磁波うんぬんはちょっとだけ説得力を与える。
ドラゴンヘッドの後震災とか最近のニューヨークの大停電とか=とまではいわないけど似たようなパニック状況は世界に起こっていると思うのだが、いわゆるドラゴンヘッド的混乱が起きたかと言うと必ずしもそうではない、中にはかえって結束が固まる自体すらある。一番混乱したのはイラクの戦争でフセイン政権が倒れた直後でその機に乗じて盗みがたくさん起こっている。
つまり天災よりも無法化した瞬間にこそパニックはあるような気がしてた。だからこの電磁波という設定はややトンデモだけど、ありかなと思った。

そして後半は唐突に現れたヘリに救助され東京に向かう
この乗組員は映画版のオリジナルだ。正直どういう人々かはよくわからないけど、東京に向かうメンバーってトコか、
正直、面構えはこの人達が一番面白い。
どうしてもマンガと較べた時に弱いなぁと思ったのは主人公達の顔でなまじ美男美女なので原作にある人間の迫力をそこなってしまうのだ。普通実写の方が生生しくなると思うが、実際にはマンガの顔の方がはるかになまなましい。
これはピンポンの映画版の時も思ったけど不思議な現象だ。結局、リアリティって実際にあるものだからリアルってわけじゃなくて、そういう要素を強調した結果生まれるものかなと思った。
写真より似顔絵の方が似ているという感じか?
ただ、ある程度商業的な映画というものは役者の制約があってやはり主人公格には美男美女を配置しないといけない。
以前ドラゴンヘッド論を書いた時、ノブオの役者を探すのは難しいと書いたけど、原作通りのキャラを作るのは無理だった。その意味で思うのはマンガの方が配役は自由で美男美女じゃなくても主役にできるし可能性は広いなぁと思った
(例えば古谷実さんのマンガって実写化されてないけどあれはひとえに顔の問題がある気がする、例えばヒミズの主人公をイケメンにしたら台無しだし)

話を戻すとここでマンガにいないキャラが出てやっと、厚みみたいなものが出た。

で、この後はテルがヘリから落ちて一人旅になりマンガで言うところの地下帝国(ただしボスはいないし米軍との最終戦争もなし)にむかう。
このシーンは監督の飯田譲治さんが是非やりたかったというシーンで、そのためか本編中では一番うまくいってるし、ここに関しては原作よりうまくいってると思う(というか原作はこの辺からラストはうまく描ききれなかったような気がする、その意味で飯田監督がここを描きたいといったのはここだけが原作に勝てるポイントだったからではないか?と邪推する)ここと傷頭の子供の描写のいや〜な感じは
いわゆる仁村とかノブオの描写の逆パターンで
攻めじゃない恐怖だ(うまくいえないけどダメな人を見たときの気分が近い)誰も彼もが恐怖を忘れる食べ物で無気力になっているトコで唯一、瀬戸さんだけが食べないでテルを待ってたというのも落とし方としてうまいし
その後のカタストロフで落石で死んでいく人々や燃えていく体をぼーっと見ている傷頭の描写との対比もいい
そして最後の「絶対いきつづけてやる」という台詞
もしかしたらここでダサいと思う人もいるのかな?と思ったけど個人的にはそんなに恥ずかしくなかった。
まぁ落しどころとしてはこうだなという感じ

全体の感想はこんな感じだ。ただ2時間に話を詰め込んでしまったため、エピソードが次から次にかわり、それがゲームの1面2面って感じに思えてそこが興をそがれる部分だ。これがマンガだとその間も丁寧すぎるくらい丁寧に書いているのでゲームっぽさが出ない。
ただ構造としては次から次に恐怖のバリエーションを展開していって最後に恐怖を感じない恐怖を描いたんだなぁと改めて思った。

と、これがいわゆるドラゴンヘッドファンとしての見方なのだが、もしかしたら、一般の客はもっと違う見方をしたのかもしれない、この映画の宣伝で一番観たのはウズベキスタンロケによるすごい美術についてで、その次に妻夫木聡主演という文句だ。SAYAKA主演でなく妻夫木聡主演、実際、彼を見たくて来た女性ファンという客も多かったのではないか(正直興行的にどうなるかはまだわからない)そう考えるとテル君の描写がたくましくなり、泣き言を言う役はほとんどアコが引き受けている(もしかしたら、そうでもないのかもしれないけどSAYAKAの甘ったるい声の泣き言の方が印象が強い)のもうなずける。
美術に関しては多分スゴイのだろうけど、よくも悪くも気にならなかった、スゴイけど何?って感じだ。
これは俺の気持ちの問題なのか?いつからかわかんないけど美術でスゴイって主張する作品のスゴイがもう一般の人には知覚できないレベルまで上がってる気がする。例えばマンガの背景って写真を見て描くことですごく細かくなっていったけど、細かくなったけっか実際の写真と印象が変わらなくなり、絵としても魅力を損なうものが多々ある、今回の美術に関する印象もそうだ、たしかに現実に起きたらそうなんだろうけど、それは現実じゃん、みたいな
多分映画は映画らしさをマンガはマンガらしさを作らないといけない時期に来てるんじゃないだろうか?と思った。
ちなみに物語的に言うとこれってタイタニックと同じだね。
世界規模のタイタニック。
そこまで徹しきれないのがまた評判が悪い原因の一つかもしれない。

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