11月
11月30日(土)1時
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ポラリスのアルバムにハマッてる。ダルい感じが気持ちいい、ジャンルはダブポップというらしい |
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11月28日(木)10時
切通理作著 「特撮黙示録1995ー2001」を読む。
最近評論はめっきり読まなくなっている
評論読むなら、その対象となる作品を読んで自分で考えた方が早いし、評論ひとつ読んだくらいでは自分の根本的な
価値観は変わらないことがここ数年わかってきたからだ。
10代後半(前半は評論の存在すら知らなかった)はまったく逆で読んだことのない作品の評論でも真っ先に読んだ。
これは今考えると、金銭的な問題で一々作品を買えなかったのや、今みたいに復刻版が普及してなくて、過去の作品に出会うのが難しかったからだ。今はブックオフのような新古書店やまんが喫茶もあるし、その気になればネットオークションもある。DVDなどの映像関連も充実している。
そもそも昔の評論にはみんなが知らない作品を掘り出してきて紹介する知の行商的役割があったのではないか
(実はこれは東浩紀さんの受け売り、浅羽通明さんも言っていた気がする)それがインターネット等で私のような素人でもその気になれば評論家の方々と同程度には(業界とのつながりがなくても)作品に出会いやすくなっている。
その事実がはっきりしてきてから、逆に神々しいかった評論に「何いってんだよ」とか「考えすぎなんだよバーカ」とか難なく突っ込みがいれられるようになった、そしてそれならもう読まなくてもいいかな?ってのが現在の状況だ。
そんな中でも読み続けている評論家の作品は実はいくつかある。
この特撮黙示録の著者「切通理作」氏の著書なんかはそうだ。
切通氏の著書は私から見ると大きくわけてジャンルのはっきりしているもの(ウルトラマン、宮崎駿作品、エヴァ)
時代状況を語る批評集(お前がセカイを殺したいなら、ある朝セカイは死んでいた)との2種類あると思う。
乱暴に分けるなら個別の〜オタク向けの作品、評論誌とか哲学書を読むような真面目な子向けのものか?
私はどちらかというと後者の読者で10代後半のものを考え出した頃から出会っている、だから「怪獣使いと少年」
に代表されるような個別のジャンルのものを語る評論は基本的に知識の共有が完璧にできていないので
ただ与えられたものを「ははぁ〜↓」と受け止める形になって、後からその作品を見るようにしてきた。
(しかも読んですぐ見るというものではない、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」も本を読んで3〜4年してから見た、その時は本で感じた、悲劇性よりも画面のカッコよさに圧倒されたが)
さてやっと本題の「特撮黙示録」であるが、目次を見て意外だったのが、結構見た作品が多かったことだ、多分仮面ライダークウガとアギト以外はほとんど見ている。
(平成ウルトラマンはさすがに全話とはいかないが書かれたエピソードはだいたい見ている、もっともこれは同著者の「地球はウルトラマンの星」が出るから試しに見たものものが多いが)
基本的に私は特撮とかアニメとか特定のジャンルでものを見ない、アニメは一時期エヴァの影響で見ていたが、それは気になる人(庵野秀明だったり佐藤竜雄だったり)がいるからで最終的に人のファンであってジャンルのファンではない、だからこの評論はガメラ2から始まるのだが、私は果たしてガメラを特撮として当時見に行ったのだろうか?
とまず思った。その証明というわけではないが最初のガメラは見ようとも思わなかった。あれは特撮ファンと小さい子供に向けられてたと、当時10代後半の陰気な少年は感じたんだと思う
私にとってガメラ2はパトレイバー2の伊藤和典さんが脚本を書いたということがデカかった、それとCMで見た地下鉄の駅に突入していく武装された自衛隊、金子監督が語ってるように変種の戦争映画として見たのかな?と今は思う。
本ではサリン事件を連想させるという形の記述があった気がするが見た当時は考えなったと思う、でももしかしたら無意識下では繋げてたのかもしれない、でもやっぱパトレイバー2の感じを期待したのが大きかったかなぁ?
あの東京で戦争が起きたら?って感じ、その意味ではガメラ2って最後のトコで住民はみんな避難してるし、作戦もうまく行きすぎていて、そのうまくいき過ぎな感じが終わってみたら、「こんなもんか」って気分になってた気がする。
我ながら贅沢な客である、あとでビデオで見たら細かいとこまで作りこんであってびっくりしたけど。
ただこの本を読んでいて特撮ファンの目から見るとガメラの話の繋げ方(台詞やシーンの省略による説明不足とか個々のシーンの演出に力が入ってるせいで全体像が見えづらい等)の批判不満があるのは始めて知って、言われてみればそうかなぁ?とか思った。でもそういう批判のされ方をされる作品は当時(今もだけど)多かった気がする
まぁ代表的なのはエヴァンゲリオンでマンガで言うとドラゴンヘッドもそう、でもそういう作品の方が今も好きだなぁ
とか思う。何かそのまとまってない感じが作品に隙間を与えていて広がりがある気がするのだ。
中途半端にまとまったものを見ると(三谷幸喜とか浦沢直樹の作品が代表的)何か腹が立つのだ。うまくまとめてんじゃねぇって感じで、もしかしてこれは俺の心の中の陰鬱な男子高校生がゴネてるのかもしれない、
少し乱暴にこの本に出てる作品をまとめると、特撮の対象視聴者が親子向けのものと10代後半から20代前半の若者向けの2極化に向かってるのかな?と思った。というより親子向けの方が圧倒的に有利なんだけど
(ちなみに特撮ファンにはその分類は無意味、両方見てこそのオタクだから)
その意味でガメラシリーズって親子連れ以外のファン層を開拓した(あるいはしようとした)特撮作品として意義があったのかな?と思った。あと避けて通れないのがエヴァとの関連
私みたいな特撮素人から見ると、どの作品もポストエヴァンゲリオン症候群(岡田斗司夫氏がBSマンガ夜話の最終兵器彼女の回で使ってた)の作品に見えてしまう、これは樋口慎嗣氏がエヴァに参加してたとか、過去のアニメ特撮作品からの影響がというのは大前提の上で、さらにその先の
「正体不明の敵」「発掘した謎の力で戦う」「戦闘シーン以上に充実した日常描写」「懐かしさを誘う風景」「少年少女の内面から見た世界観」「基本的に人が容赦なく死ぬサバイバル観」「敵がどんどん自分のコピー的な存在になる」等まだあるかもしれない。
ただ少年少女から見た世界観の所はウルトラマンや仮面ライダーではダイゴや五代雄介のような、やや中性的な癒し系好青年に変換され、彼らのニュートラルな目線がストーリーや回りの人間関係をまとめていくという形になる。
この主人公の流れは本書によるとウルトラマンティガから出てきているようなので、一方にエヴァのシンジ君がいて一方にティガのダイゴがいるというのが今のヒーローものの主人公の形かな?と思った。
実はポストエヴァンゲリオン症候群の作品はアニメよりも他ジャンルに普及したものの方が多く、興味深い展開を見せている気がする、ドラマでは「踊る大捜査線」や「ケイゾク」なんてメディア展開のあり方まで近いしバトルロワイヤルの受け方にも近いものを感じる。その流れだけで一冊本を作れるだけの面白さがある気がする。へんな覗き趣味でなく
う〜ん自分で書いていて思うのだが長くなりすぎている、しかも本の内容自体にはほとんど触れていない。
まぁ長くて分厚い本なので長い感想が出るのは仕方ないと思うのだが、そrにしてもまとまらん。
ただ評論の感想を文にすると、その意見の是非とか資料的にどうか?とかの突っ込み方になってしまうし
ともすれば「俺の意見はこうだ!!」という主張にしかならない。
それなら自分なりのガメラ評を書いた方が手っ取り早いし、誰にも迷惑をかけない。
多分自分なりにガメラ評は書くんだろうな、特にVはいいのが書ける気するし、あとクウガとアギトも見とこうと思った。
最後に本の内容についての感想というより、書かれ方についての感想をまとめておこうかなと思う。
まず最初の年表が面白かった、というより90年代後半って何でもありだな。まさに時代の箍が外れた感じ
誰だ「失われた10年」とか言ってるやつは?あっ村上龍か
あの年表がまず90年代の時評集でもあるんだよ。というスタイルを打ち出してきているんだなと好感。
それにしても今は懐かしものブームといわれるが、誰も90年代は懐かしがらない。まぁあと数年すればわからないけど、本音のとこでは考えたくないんだろうなぁと思う。そこに切り込んでくれるだけでも貴重な本である。
切通氏のあとがきにもあるように評論の文体は作品の時間軸にそって切通氏による作品の描写の活字での再現と
その描写の背景(時代的なものであったり特撮技術に関してだったりトラブル、監督と脚本家との意見の食い違いに関しての情報等)にあるものを書き込んでいく、マンガでいうとそこは少女漫画等にあるモノローグや白土三平が書く薀蓄込みのナレーションのようなものだ。正直言って私はこっちが読みたくて読んでいるので、どうしても作品の描写に関する文が間の繋ぎに感じてしまう。特に見た作品だと「知ってるからいいよ!!」って思ってしまい、二度目からは飛ばすか斜めに読んでしまう、もちろんその描写の間、こっちの内面が宙吊りにされるような変な快楽もあるのだが、もしかしたらあの軽いイライラを持たせるための意味もあるのだろうか?
例えばこれがまったく独自の文体で再構成された文章で映像のノベライズ(しかも本編より面白い、大塚英志氏のサイコみたな)とかになるとその部分を読むのも楽しくなるが今回のものも前回の「宮崎駿の世界」でも作品の説明としての部分以上のものは感じないその分見たことない作品での描写の文は楽しく読めたがそれも本編を見れば済むことのような気がする。私は切通氏の文才は確かなものだと思うし、多分本気を出せば例えば切通氏のノベライズ化した独自のガメラのような評論内小説も書けてしまうのだろう、でもそれをやると、今度は評論なのか?
という話になってしまい、まるで2次製作の同人誌みたくなってしまう。そのバランスが今は過渡期なのかなと少し思った。あと不満を言うといくつか資料として写真が入ってるのだが、これがモノクロなので見ずらい、特にガメラなんて画面が暗いので何の絵かわからない。これだったイラストにしたほうがましかな?(岡田斗司夫氏のオタク学入門では映画のシーンをリアルなイラストで再現したものが多々あった、)
しかもあまりその意図(何のために載ってるのかが)よくわからないものも多い。あれなら注釈だけで充分かな?と思った、カラーならまた別なんだろうけど
あとは最後のインタビューについても思うことはあったけど、ここは別の本にしても良かった気がする。それこそ今、切通氏は特撮関係の方にインタビューをしているのだし、そっちの載ってた方がバランスいいかもとか、ちょっと思った。
これはその箇所がつまらないというわけでなく、むしろ別の面白さを感じたからだ。
それにしても最初にこの本を見た時はあまりの厚さに驚いた、あとがきでも氏は自分の本はつい長くなると書いていたが
この労力を3等分くらいにして薄い本をあの先生やあの先生みたくコンスタントに出した方が効率いいのになぁとか余計な心配をしてしまう、何かいっぱい売れないと原価割れ(評論にそういうのがあるのかわからないけど)して赤字になるのではと思っていしまう。まぁ読む方としては嬉しい限りであるのだが。
11月25日(月)23時
サウスパークとアフタヌーンと、日誌の方向性と帰る場所
アフタヌーンの今月号を買った、理由はフィギュアでなくて「なるたる」がどうしても読みたかったから
あのフィギュアをつけるというのは、買う人は嬉しいのだろうけど、明らかに立ち読み封じだ。
実際、コンビニとかはほとんど閉じられてた。何か講談社はこのパターンが多い、これって新規読者を封じて
よりマニア的な方に閉じてく可能性がある、まぁアフタヌーンだからやるんだろうけど、(来月再来月も続くらしい、でも悔しいけどフィギュアの出来はいいし、再来月は寄生獣のミギーのストラップだし、あぁどうせなら「なるたる」のホシ丸やアキラちゃんも・・・・)週刊誌とかはやらないだろうけど、
せめてフィギュアなしの立ち読み可の本も出して欲しい。
さて、今月のなるたるだけど、う〜ん、あのまま死んだままでもよかったような、でもそれじゃぁ話作れないし
要するに綾波レイなのかな?シイナが、実生ってのがシイナのお姉さん=乙姫なのかな?
だんだんシイナとアキラちゃんが似てきた気がする
それにしても全然先が見えない作品だ、東京は核が落ちてるし
サウスパーク通信を読むため映画秘宝を立ち読みしたのだが、サウスパークのマット・ストーンがコロラドのトレンチコートマフィアの銃乱射事件のドキュメンタリー(ボーリングなんとかって奴)にその高校出身ということでインタビューに答えてるらしい、内容はシリアスなもので、アメリカのハイスクールの閉塞性についてで、そのキツさがわかるという感じのもの、それを読んでいて、「どこもそうなんだなぁ」と思った。
自分のことを振り返ってみても、やはり高校(とくに男子校だったんで)時代の息苦しさは覚えてる。
特にいじめとかアメリカみたいな人種問題があったわけでも銃がからんでるわけでもないけど、
何だろ、昔「完全自殺マニュアル」に「そもそもただ同じ歳ってだけの人間を同じ空間に閉じ込めて共同生活させようってのが無理なのだ」って感じのこと、たしかその後に「そんなストレス下の場所ではいじめか恋愛ゴッコしてうさをはらすしかない」みたいなことが書いてあった気がする、今手元にないのでニュアンスは違うかもしれないけど、そんな感じの気分、あのキツさ、特にその閉鎖された学校社会で負け組(勉強できない運動できないモテない)に回った人間のつらさ、苛立ち、それがすごいあって、よく考えれば誰も抑圧してないのに(この辺はあの事件と背景は違うけど)毎日キツいなぁと思ってた。
今考えても、その頃が一番漫画や音楽にハマッてたし、今でもあの頃の作品はよく覚えてる、多分サブカルチャーって、そういうキツい鬱屈した中高生に「まぁ大丈夫だよ、君が思ってるほど酷くはないよ」って言うためにあるんじゃないか?と思い出した。
逆に言うとあの時、楽しく過ごせた奴やあの頃をうまくやり過ごせた奴にはサブカルチャーは必要ないんだと思う。
だから今の作品にから自分の関心が落ちてるのはある種当然だと思った。
そんなことを考えながら、あの時の気分に戻れる作品はないか?と考えてある作品(なんかもったいぶった言い方)
に出会った。華倫変の「光速線は光うさぎの夢をみるか」
発売当時は見送った。理由は当てられるのが嫌ってのと、今ってそういうネガティブなものの市場もちゃんと出来てるからけして挑発的なものでなく、そういう市場のニーズに合わせたものだろ?と思ったからだ。
ヤンマガに描いてた時は好きだったけど、エロテックスFとかに行くとハマリすぎで、アート系に媚びてるなぁとか
思ってた。でもそんな回りの思惑と本人の有り方は関係ないなと読んで反省した。
作品個々がどうというより、こういう世界(絵も含めて)を描けるのが正しい目線だと思った。少し山本直樹さんを連想した。ここが原点だ。迷ったらここに帰ろうと思った。
サウスパークについて
現在WOWWOWでサウスパークの第5シーズンが放送されてて毎週楽しく観ている。
昨日は手品師のサークルが実はカルト教団でカートマンやカイルがはまってしまい、それを助けるためにキリスト(この世界ではホンモノのキリストがサウスパークにいる)がブッダやマホメッドら聖人たちのドリームチーム「スーパーフレンド」を結成して立ち向かうというもの、途中いかにも安いアメコミのヒーローものといった感じのバカバカしい解説が入る。サウスパークはちょくちょくこういう宗教ネタを思いっきり安くB級に使う(前回はアーサー王の円卓の騎士がラスベガスに住んでたりした)見てて簡単に集団自殺とかだしちゃうのはドキッとするけど(死をネタにされると引いてしまう)それらのネタを淡々と進めてるような気がする。
ネタの危なさは話題になってるが実は私の関心はその演出方法だ。
いわゆる切り絵アニメで(製作はCGだが)背景の絵の上をキャラの絵が動くのだが、カメラのカット割りがすさまじく平坦なのだ。カメラも引きと顔のUpくらいで、斜めで煽ったりとか上から俯瞰とかは(最近増えたけど)まずない
だから、そういうシーンがあると逆に効果がある。「え〜、何でわざわざそんなことすんの」と驚かされるのだ。
平坦なコマ割りでサラッと過激なことを言われると、この世界では全部それが当たり前のものに思えてくる。
漫画はどうしても一コマ一コマがんばりすぎてしまうんだよなぁ。あの当たり前のものとしてある世界を作り出すための
あの手法は結果的にうまくいってるのかな?と思った。一見だれでもできそうだけど、実は技術がある人ほどこの割り切りができない、今日本の漫画やアニメが息苦しいのはこの技術が高すぎることに原因があると思う。
その意味ですごく見習うとこのある作品だ。
この日誌の方向性
いわゆる今思ってること、アイデア、評論、物語の導入部とにかく書けること全部結論をきめずに書いておく
構成とかも書いてるときは考えない、あとで誤字脱字重複は修正するけど、とにかく書いておく。
何というかアイデアのバンク、そこから発展させて次の展開を考えていく。
こうでもしないと更新がすすまなすぎる。
11月22日(金) 21時
あまり更新しないのも何なので映画評をひとつ
ロックンロールミシンを観た
監督は「GO」の行定勲氏、GOより好きかも、淡々としてるんだけど、青くて熱臭いことを描いてる気がした。
観ていて思ったのは反復の効果が効いてるということ、
坂の上から後ろ姿の主人公が降りていく構図(時にスーツ、時にラフな服、ゆっくり歩いてたり、走ってたり)
アパートのベランダ越しに上から見た坂を上がっていく構図、アパートの客が来ると鳴り出す黒電話、
会うと下着姿に脱ぎだす(白上下)主人公の恋人「由美子」(コイツの脱ぎ方、誘い方がいかにも普通のお嬢さんという感じでエロかった)、これらのシーンが淡々と反復される。まるでミシンで縫うみたいに
少しおぉと思ったのは主人公がストロボラッシュの会社の経営状態に口を挟んできたところ
そこで初めてメンバー内で不協和音が生まれる、リーダー格のりょうちゃん(女優にりょうがいるので紛らわしい)
のカリスマ性が揺らいで、主人公がマネージャーみたくなり仕切りだすのか?とドキドキしたけど、そうはならなかった
多分似たような体験(文化際なり部活動なり)をした人には思い当たるシーンが多々あるんではないだろうか?
みんなで何かをしていた時の高揚感と、ぬるま湯のグズグズ感、このクスぶってる感じが自分のことのように感じて良かった。正直ラストのりょうちゃんのストロボラッシュ解散に至った経緯が唐突に思えたが(金も借りに言ってたし、ただそのシーンでの柘植さん(師匠すじ?の人)との会話が無音なのでそこで伏線のようなものがあったのか)
多分りょうちゃんもりょう演じる椿のことが好きで、だからこのブランドを維持しようとしていたのだが
主人公と乳繰り合ってるのを見てしまって、何かどうでもよくなってしまったという辺りだろうか?(ここで見たか見てないかはわかりにくく描いてある、この映画には具体的な内面描写が少ないので結構想像させるつくりになっている
こういうのを見ると映画だなぁと思う)でもこの唐突さがまさにモラトリアムの終わりに相応しいなとも思った
GOではややマイナスに感じた(これは宮籐官九郎氏のテイストと会わないという意味での)シリアスな女の子の描写や台詞回しも今回は素直に入れた、上司を殴った後「すみません」と謝るとことか好き
あとGOでも好きだったのが騒がしいクラブを出たあと仲間ととぼとぼ歩いてるようなチルアウト感
あの醒めてるんだけど気持ちい感じはメジャーには成りにくい感覚かもしれないが今後も見せて欲しいなと思った
あとエンドロールのミシンの縫い目が続いてく感じは彼らの人生も淡々とだが続いてくよと言ってるみたいで気持ちよかった。
追記、他にはトリック劇場版と凶気の桜も観ている、又感想を書くかも、あと「はっぴいえんど」のアルバムの最初のと「風街ろまん」を聴いた、ダルいけど強さを感じる
堤幸彦さんの本「堤」を読んでの影響、あとハンドクもレンタルで見てる、これが池袋ウエストゲートパーク以降というのはよくわかった、本放送ではレッツゴー永田町のほうが企画力の勝利と思ってたけど
まとまったソフトとしてみるならやはりこっち、また堤幸彦ブームが自分の中できている。
11月4日(月) 23時